植村正久訳 「天に一人を増しぬ 清められ 救われ 全うせられしもの一人」

クリスチャンにとっては、この上ない慰めと希望を与えてくれる詩をご紹介しよう。

 

著名なキリスト者である植村正久氏が美しい翻訳をする前は、原作もほとんど知られていなかったらしい。それがこのように見事に翻訳されて、日本のみならず世界に知られることになったという。

筆者がこの詩を知ったのは、長野キリスト集会の尾崎富雄先生の「地上の星」シリーズの講演の第54回「植村環」の話の中で紹介されて大きな感激を覚えたことによる。

                            

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「聖書を読む会」特別企画  
「地上の星--名もなきクリスチャンの生涯」
  ゴスペルホール代表、尾崎富雄氏
  第1回 2011年10月7日(金)
  第48回 2016年2月19日 
 各回、平均CD2枚に納められている
問い合わせ先 長野キリスト集会 
〒381-0082 長野県長野市上駒沢918-8
 TEL・FAX026-295-6705

「地 上の星」リスト・2016年3月

長野キリスト集会の「名も無きクリスチャンの生涯」シリーズはタイトルの如く、取り上げられる人物は、ほとんどが名のないクリスチャンたちの生涯である。講師は尾崎富雄先生で、詳細に調べキリスト者としての視点からまとめて話されるので、含蓄のある話になっている。

興味のある人は、上に上げたサイトに講演がアップされているので聴いて見て下さい。伝道に心を用いている人は、このCDは役に立つだろうと思います。

 

「天に一人を増しぬ」 

            セラ・ゲラルデナ・ストック作   植村正久訳

 

家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり

愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき

さはれ 天に一人を増しぬ 清められ 救はれ

全うせられしもの一人を

 

家には一人を減じたり 帰るを迎ふる声一つ見えずなりぬ

行くを送る言葉 一つ消え失せぬ

別るることの絶えてなき浜辺に

一つの霊魂は上陸せり 天に一人を増しぬ

 

家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れにたえず

内に入れば空きし席を見るも涙なり

さはれ はるか彼方に 我らの行くを待ちつつ

天に一人を増しぬ

 

家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽いて

歩みもしどろに 目も暗し

さはれ みくらよりの日の輝き出でぬ

天に一人を増しぬ

 

げに天に一人を増しぬ 土の型にねじこまれて

キリストを見るの目暗く 愛の冷ややかなること

いかで我らの家なるべき 顔を合はせて吾が君を見まつらん

かしここそ家なれ また天なれ

 

地には一人を減じたり その苦痛 悲哀 労働を分つべき一人を減じたり

旅人の日ごとの十字架をになふべき一人を減じたり

さはれ あがなわれし霊の冠をいただくべきもの一人を

天の家に増しぬ

 

天に一人を増しぬ 曇りし日もこの一念に輝かん

感謝 讃美の題目 更に加はり

吾らの霊魂を天の故郷にひきかかぐるくさりの環

さらに一つの環を加へられしなり

 

家に一人を増しぬ 分るることのたえてなき家に

一人も失はるることなかるべき家に

主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を

我らすべてにも与えたまえ

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サッカー、サッカー、サッカー!!! 日本中、サッカーしかないのか?恐ろしい全体思想

マスコミは、サッカーで狂乱の騒ぎである。

日本にはサッカーしか、他には何も無いかの如き様相である。確かに、サッカーしか何も目に入らない人々もいるのは確かだろう。しかし、日本人の何パーセントの人々がこのようにサッカーに夢中なのだろう?

 

このように日本中が、まるで一つであるかの如き狂乱状態を呈すると、映像でしか知らないヒットラーを取り巻いた当時のドイツの姿を思い起こす。その頃、日本も軍国主義一色であった。アメリカも参戦した後は、「パールハーバーを忘れるな!」のその一点で、一致団結させられた。そして、その後にはソ連のスターリンの独裁、そして何回も様々な局面での中国の「一致団結」。そして北朝鮮の独裁制の狂乱はいつまで続くのだろう。一体何がどうなっているのか外部の人間には一切分からない。

 

このように国全体が、あるいは地方全体が、あるいは何かのグループ、それが例え数人のグループであっても、全体が一致団結すると人は理性を失って、「何でも出来てしまう」みたいな状況を醸し出す。グループが小さくて、別の逃げ道があればそこから抜け出すことは可能であるが、抜け出すことの出来ないグループにはまってしまうと狂乱の生活の中でどんどん人間であることを忘れてしまう。もう、昔のことになってしまった感のある「オウム事件」は、そのような「一致団結」の恐ろしさを日本人に改めて思い出させたのである。ただ、このような全体主義思想は自分とは無縁だと思い込んでいることこそ、全体主義思想を助長する温床なのであり、実は、多くの人がその中で生きている。そして、日本中はしばらく、「オウム事件」一色で塗りつぶされた。

 

全体主義的思想は、人から理性を奪い、全体の中に巻き込まれていると、とにかくも安全である。「個」を主張すること、他の人とは異なる「独自の考え」を述べること、他の人とは「異なった行動をする」ことは、恐ろしい危険に曝される。実態は色々であるが、「みんな」という訳の分からない言葉で、人は簡単に踊らされる生き物である。

 

スポーツは、しばしば人間の理性を奪い、狂乱の踊りを踊らせる。このような大騒ぎが起こると、筆者が体験した昔々の小さな事件を思い出す。筆者が高校生の時のことであるが、国民体育大会(国体)が県で開催されることになり、当然のことながら学校は上げて参加し、応援した。どの競技に学校が参画したか覚えていないが、当時、その高校はサッカーが強かったからサッカーは多分参加したのであろう。それ以外に、どの競技に出たのかは全く覚えていない。ただ、学校は応援に行くようにと生徒たちを鼓舞し、奨励した。

 

それは自然なことであり、それ自体は悪くない。その高校は、当時の他の高校に比較すると、非常に自由を大切にし、生徒一人一人の個性を育てることに心を用いた高校であったと思う。そろそろ受験戦争の嵐が荒れ始めた時代であったが、その高校は「全人教育」を目指していた学校で、大学受験のためだけの「机にしがみついた勉強」を評価しない教育が行われていた。従って、生徒たちもいわゆる「ガリ勉」を軽蔑し、勉強もクラブ活動もきちんとこなす生徒が尊敬されていた。

 

その高校の生徒の大多数は、当時としては珍しくそのようなバランスの取れた高校生活を、何とか曲がりなりにも楽しんでいたように思う。「ところが」である。勉強だけではなく、クラブ活動も運動も大切であるという考えを歪んで解釈した教師がいた。勉強も、クラブ活動も、運動もというこの「も」を曲がって考えたのである。国体があったら、「運動が」唯一大切であると決めつけ、教職員も生徒たちも一人残らず、国体に夢中になり、応援に全力投球すべきであるという全体思想を生徒たちに押しつけたのである。

 

国体終了後、その教師の授業の第一時間目、「国体の応援に行かなかった者は手を上げなさい」と、手を上げさせたのである。この教師の国体に対するこれまでの考えを生徒たちは知っていたので、手を上げたらクラス全体の中で叱責されることは分かっていた。それで、知らん顔をして無視した生徒がかなりいた。しかし、数名は手を上げた。予想通り、彼は「大学受験だけが大切ではない。このようなスポーツ大会に応援にも行かないで、机にしがみついて勉強ばかりしているようでは、ろくな大人にならない、云々・・・」の叱責を加えた。

 

国体の応援に行かないということが、すなわちガリ勉であると決めつけた教師に、筆者は猛然たる反感を覚えた。小さい頃から運動に関しては人並みのことが出来ないために、教師に痛めつけられ続けていた筆者は、当然のこととして運動嫌いで、激しい劣等感を持っていた。ガリ勉だから国体の応援に行かなかったのではない。勉強は一生懸命したが、さりとて、大学受験につながることばかりしていた訳ではない。ただ、単純に運動が嫌いだったのである。ただ、問われて手を上げないという振る舞いは筆者には出来なかった。何を言われるかが分かっていても手を上げた。彼の非難を黙って聞いていた。それに反論するすべはなかった。心の中に彼への反発心が沸き上がっていた。

 

運動が好きな人は、自分が一番出来る種目だけではなく、どの運動をしてもある程度はスマートにこなす。いわゆる運動神経が発達しているのだろう。逆も真である。運動が出来ない人は、何をやっても人並みに出来ない。

 

人の好みも様々である。運動の好きな人、嫌いな人、勉強が好きな人でも、数学が好きな人、物理が好きな人、生物に関心を持つ人、音楽が好きな人、絵画が好きな人、文学が好きな人・・・・・実に、人様々である。この多様性を認めない、全体主義思想は人間をダメにする。空恐ろしい思想である。

 

日本は、あるいは世界中、このような全体主義思想でうごめいているのかも知れない。

 

まだ、決着を見ていないレスリング界の騒動も、その一つである。あのようなとんでもない監督がパワハラをし続けて、・・・通用したような群れは恐ろしい。そして、その彼を支持して、まるでドラマの悪役がほざくような台詞を平気でマスコミの前で、パワハラの被害者である選手に更に追い打ちを掛けて非難の暴言を「吠えた」〜大学の「学長」。どのように贔屓めに見ても、彼女はまともな人間とは思えない。

 

そうかと思えば、アメフト騒動・・・・巨大な大学という閉鎖社会。この中で生き残るためには、口をつぐむしかないという恐ろしい群れが、大小様々、日本にどれ位あるのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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神のかたちを頂いた素晴らしい人、ハーザー誌「創造と福音」連載の締めくくり

マルコーシュパブリケーションの月刊誌「ハーザー」に、「創造と福音」を主題にして、長期に亘って連載させていただいた。2016年12月号で締めくくりとして書いた「神のかたちを頂いた」を、筆者の公式サイトにアップした。

 

「34.神のかたちを頂いた」

 

サイトを訪れて本文を読んでいただきたいと願うので、その「序文」をここで紹介する。

 

神のみ姿を映された尊い存在として人はこの世に命を頂いた。そして、地を治め、動物たちを治める任務を与えられた。しかし、神よりも自分の方が正しいと主張して、神に反逆し続けたなれの果ての人類の姿、世界中が憎しみと戦争で荒れ狂っている姿、ボロボロになった地球の姿を、人類は今、なすすべもなく呆然と見つめている。神のお姿がすっかり見えなくなり、頂いた美しい姿も分からなくなっている。

 

 しかしながら、私たちが創られた見事に完全な、最初の姿がどのようなものであったかを再確認し、イエス・キリストを信じる信仰によって新天新地に新しい体を頂く約束に胸膨らませて、この「創造と福音」の連載を締めくくりたいと思う。

 

なお、2017年1月号から12月号までは、「キリスト信仰&聖書」対「学問&自然科学」との関係について、様々な角度から考えて書かせていただいた。そして、2018年1月号からは、「神の創造、そして慈愛と正義」という全体的な主題の元に、(中)高校生及び大学生を読者の中心において、読みやすいよう、親しみを持てるように工夫して創造の過程を描いている。興味のある方は、ハーザー誌を購読して下さい。ハーザー誌は多少堅いかも知れないが、内容の濃い、記事が山積みである。霊魂体の大きな養いになる月刊誌であるのでお薦めしたい。

 

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新作DVD「聖書と科学」のご案内

DVD「聖書と科学」ができました

 

 聖書と科学との関係については、様々な誤解が日本のみならず、多くの国で拡がってきたように思います。それは、聖書への誤解、そして科学への誤解と科学に対して、殆ど信仰になっているほどの過剰な期待や誤解が相俟って、聖書及びキリスト信仰の真の姿が伝わらず、様々な曲解の中で信仰者も、そうでない人々をも苦しめてきたように思います。

 

聖書を正しく読み、理解することと同時に、科学をも正しく理解する必要があると、両者の関係を機会があるごとに語らせていただいています。今回、鳳キリスト恵み教会で行ったセミナーをDVDにまとめたのでご紹介します。セミナーでは、いつもと同じく、内容を分かりやすく理解出来るための一助として様々なイラストを使用しており、楽しんでいただけると期待しています。

 

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DVDの内容(要約)

 

【DVD 1】 「聖書と科学との正しい関係」

 

恵みと愛と祝福に包まれて人類史は始まったが、神のようになりたいという誘惑の迷路に人類は突入した。人間の科学が絶対であり、聖書を科学で証明する必要があると思う科学信仰の闇が拡がってきた。

 

【DVD 2】 「科学は主に導かれて」

 

創造主は叛逆した人類が学ぶべきものとして、ご自身が定められた自然法則を学ぶ道を示された。優秀な科学者たちは、汲めども尽きない知識の泉に胸を躍らせ、自然の真の本質を人が知ることは永遠にないだろうという英知を授かったのである。

 

現在、オンラインストアでご購入いただけます。詳細・ご購入はこちらまで。

 


 


 

 

 

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相撲協会の迷走に振り回されたマスコミ。暴力事件が相撲協会の勢力争いにすり替えられた。

2017年12月29日(金)の朝刊(朝日新聞)を受け取って、呆れて開いた口が塞がらなかった!

 

一面のトップ記事は、横綱のしでかした暴力事件の相撲協会としての後始末の最後として、被害者側の親方、「貴乃花理事の解任」である。一時期、毎日、スポーツ紙でも何でもない、日本の良識みたいな表向きの顔をしている新聞の朝刊の一面にこの暴力事件が取り上げられ、あきれ果てていたら、遂に一面のトップ記事である!

 

相当な理由があっても、手で殴る暴力さえ許されることではない。まして、この加害者は手でかなり激しく殴った後、何かのリモコンか何かで殴り、被害者の頭を10針縫うほどの大けがを負わしているのである。

それは、まさしく刑事事件として取り扱われる事件であり、警察に届けたことを云々する事例ではない。

にもかかわらず、相撲協会はこのことを問題としたことを大きく取り上げたようである。

 

日本の社会は、悪事をなしても権力者は隠蔽する悪習がある。うやむやになりそうな安倍首相夫妻を取り巻く「もり・かけ問題」に代表されるような、日本の指導者が権力・人脈を思う存分に操って隠蔽してしまいそうな勢いである。

相撲協会はさらに古めかしい閉鎖社会であるから、これまでも横綱が暴力をふるってけがをさせても、弟子を殺しても、まともに刑事罰を受けないで覆い尽くしてしまった。今回も、警察などに報告しないで完全に覆い隠してしまおうとした。それに抵抗した「正しい判断」をした貴乃花親方に腹を立てた理事長一派は、集団でいじめを行なって理事解任を決議した。提案ということのようだが、評議員会はさらに強硬姿勢で、どの社会でもいつの時代でも、抵抗する勢力は排除される。

 

暴力事件はそっちのけである。本末転倒もはなはだしい。

 

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俺の遺産の一部を世界の子供たちに贈っても良いか? ユニセフの宣伝!

俺の遺産の一部を世界の子供たちに贈っても良いか?

 

ユニセフの広告の台詞に驚いた!

そして、この父親の台詞を子供が非常に肯定的に、感激したかの如き感想がその後に続いて語られている。

 

食べ物がなかった時代、不味い脱脂粉乳でも食べるものがあるだけでも幸せだったという父親の思い出が語られていて、食べ物のない世界の子供に遺産を贈りたいということである。

 

遺産を誰に、どのように分けるかは、法律の許す範囲内に於いて、死ぬ者の自由であるだろう。だから、自分がこの世にいなくなる時点で、「善行」をして好い気分になろうというのは自己中心で、高く評価される筋合いのものではないと思うのだが、不思議に世の中はこういう行為を歓迎する。

 

社会の弱者、政治紛争の犠牲になっている子供たちへの思いやりが本当にあるのなら、遺産ではなく現在の自分が享受している様々な恩恵をこそ分かち与えるべきだろう。自分も大きな犠牲を払ってこそ、意味がある行為である。余ったから与える、自分が死んでいくのでもう要らないから分かち与えるという不遜な態度には、申し訳ないが眉をしかめたくなる。

 

このような人物たちの「寄付」は、数字の上では経済的潤いをもたらしてユニセフの働きに貢献しているのだろう。でも、それが日本人の思いやりの心であるとは思いたくない。

 

自分が下車する時、次に座る人を決めようとした人!

 

ユニセフのこの広告で、列車内で体験した一コマを思い出した。

 

筆者がもう少しだけ若くて、1時間くらいなら立っていても我慢の範囲であった頃、京都から東京まで出かけた時のことである。新幹線がかなり混んでいて、当然指定席は手に入らず、自由席で筆者は立っていた。大抵は、名古屋で席が空くので一時間我慢すれば良かったのだが、その時の混み具合はそれを期待できるような状態ではなかったので、東京まで仕方がないと諦めていた。

 

さて、名古屋到着のお知らせ。

降りる準備をする人々がもぞもぞと動き始める見馴れた風景である。そして、予想通り、通路に立っていた人々が席を確保できるほど下車する人はいない気配であった。

 

と、その時、遠くから筆者の袖を引っ張る人がいた! 振り返ると、「自分は降りるので、どうぞ」と言う。勧められた座席と筆者との間には立っている人が二人ほどいた。その人々を押しのけて「善意に溢れている」という笑顔を作って、「私の席」を譲って上げるというわけである。

 

もちろん、その席は、もはやその人が坐る権利を持っている「私の席」ではない。強いて言うなら、一番側に立っていた人が次にその席に座る権利を獲得したのである。したがって、自分が権利を持っていない他人のものである席を「盗んで」、他の人に譲り渡そうとする行為である。

 

筆者は、「そのような行為はいけないことだ」と一言、注意したい思いはあったのだが、それはしなかった。ただ、その座席から遠ざかって拒絶の意思表示をするに留まった。

 

ちなみに、この広告はいつからしていたのだろう?と、ふっと思った。随分以前からしていたのかも知れないな。日本人の思いやりの心をこのように安っぽい理解しか出来ないユニセフなのか、このような行為が弱者への思いやりだという誤解が日本には実際広がっているのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ドクターウーマン:女は外科にいらない? 昔、女には大学の門さえ開かれなかった。

ドクターウーマン

 

女性医師の活躍を取材した番組を見た。

 

優秀な医師たちである。男性の場合には決して起こらない数々のハードル、社会的邪魔だて、妨害、そんなものを一つずつ乗り越えて彼女たちは優秀な外科医として成長し、活躍している。同じ成果を得るためには、男性の何倍もの苦労がある。

 

「女は外科にいらない」と平気で言えてしまえる社会だったと、現在47歳のこの女性医師は言う。このような攻撃を受けた出来事を過去のこととして語る。確かに、立場も地位も評判も手に入れた彼女に対しては、そのような攻撃は今はないだろう。しかし、今から伸びようとしている若手には、多分、今もそうではあるまいか?

 

筆者は医者ではなく科学者であるが、長い長い間、迫害に耐えてきた。「女は大学教育など受ける能力はない」「女は家庭で主婦になればいいのだ」「女は教えられて学び、試験で良い点を取ることは出来るが、研究は出来ない」「女は、受け身で教えられた事しか出来ない」「女は考えることは出来ない」「研究に女は要らない」「研究室には女はお断り」・・・こんな恐ろしい言葉を、折に触れては浴びせられて、とんでもない迫害の中を生き延びてきたのである。

 

社会の女性に対するこのような攻撃は、確かに少しずつ減ってはいるが、筆者が大昔、期待したのとはほど遠い。女性であるが故の迫害に辛い思いをしたときに、2−30年も経てば良くなって、後輩たちはきっとこのような苦労をしないだろうと期待したのであった。すなわち、この女性外科医の世代は、女だからと差別されることはなくなるだろうと思ったのであった。しかし、この女性医師自身は、やはり、女性に対する迫害と闘って、今やっと力一杯働けている。

 

しかし、この女性は独身であり、今回の番組で出てきた女性医師たちは、独身か、離婚体験者で、家庭生活を楽しむという側面がなく、男性医師とは異なる。家庭生活を楽しみ、子供を持つということを「女の幸せ」という言葉で置き換えるのは間違っているが、家庭を持ち、子供を育て、社会でも働くというすべてが満たされて、人間生活だと言えるのかな?とは思う。

 

日本人初の女性医師、荻野吟子

 

日本人女性初の国家資格を持った医師、荻野吟子は、明治18年、1885年に女医第一号になった。
長い長い人類史に於いていつ始まったのか、女性の人権を否定するような社会に転落し、女性自身がそれが正しいことだと思い込まされるところまで人類は堕落した。

 

そして、そんな長い堕落した社会から抜け出そうとする女性も僅かながら顔をもたげる人々が出てきて、その中で艱難辛苦を耐え忍んで、医者の世界で最初に医師の資格を得た人物として荻野吟子は大々的に報道されたようである。

 

このクリスチャン女性医師については、長野キリスト集会の「地上の星」シリーズの講演会で、尾崎富雄先生が詳細に講演しておられるので、興味のある人はCDを取り寄せて聴いてみて下さい。

 

先人たちの努力の結晶として、今の若い女性たちが何とか社会に進出しているが、それにつけてもその歩みの緩慢であることが残念に思われる。

 

政治の世界でも、このところ有名になりすぎた小池東京都知事、確かに有能な人だと思うが傲慢になりすぎた。所詮それだけの人物だったのだろう。

他にも、国会議員になった途端に不倫騒ぎを起こしたり、まるでやくざのような物言いをして秘書を侮辱するような、まともな人間以下の振る舞いをする「国会議員」というバッジを付けた女性など恥ずかしくてしょうが無い。伸びようとしている真面目な女性の将来に暗雲を立ちこめさせるこれら馬鹿者、女性たちには、がっかりさせられる以上で、唾棄すべき存在に思われる。

 

荻野吟子のような優れた先輩たちの爪の垢でも煎じて飲めばいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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中学生の自殺・教師によるいじめを「指導」と言い換える卑劣さ

「担任ら叱責中2自殺」??

 

10月16日、朝刊の一面に踊っていた文字に、「またか! この頃の子供は命を粗末にするなぁ! 子供たちが叱責されないで育つために弱くなっている」。こんな第一印象を与えるような見出しであった。

 

記事を読んでみたら、見出しとは異なっていた。見出しは記者の偏見に基づいて付けられたものだろう。

担任と副担任の行動は教師としてのまともな叱責などというものではなく、「指導」という建前を振りかざして「叱責」という名前を与えたに過ぎない、実は教師による陰険ないじめであることがおぼろげに読み取れた。権威と権力を振りかざす教師に対して、弱い立場の生徒は抵抗できない。

 

子供のちょっとした失敗を、どうやら長期間に亘って「指導」という名目で、繰り返していじめていたようである。

 

その後、様々な情報が出てきて、教師の行動が不当であり、又学校の対応も理不尽であったことが明らかになってきた。校長は辞表を提出して、自宅待機の状態になっているようである。一体どれ位の人数の「教師」が、教師という重要な任務を誤解して、教師としての給料をもらっているのであろうか?

 

理不尽な教師たちや学校に一撃を加えることが出来てよかったが、しかし、そのために幼い命が犠牲になってしまったのは余りにも無残な事件である。

 

昔の教師も理不尽な怒りを生徒に爆発させた!

 

筆者が小学校へ入学したのは、第二次世界大戦敗戦後、国も人々もボロボロになった直後であった。恐ろしいB29から雨あられと降ってくる爆弾と焼夷弾で国は焦土と化した。もちろん、二発の原爆がだめ押しをしたことは周知の事実である。日本の国土も人々もアメリカの爆弾攻撃によってボロボロになった。

 

若い男が全部戦争に駆り出されたため、老人と病人以外は体力の衰え始めた壮年も男という男は、すべて戦争に駆り出されることになってしまった。これらの人々は死に、生き残っても体も心もズタズタに引き裂かれて帰ってきた。戦争に行かなかった人々も、爆弾で、焼夷弾で、大勢が殺された。

 

そんな中で戦争が終わり、学校は曲りなりにも残っていたが教師がいなかった。戦時中、教師の免状はおろか、まともな高等教育を受けていない人が代用教員として教師になった。そして、戦後、代用教員として働いた実績が教員であるという資格として採用され、教員免状を手に入れてしまったのである。

 

教員免状がないということ以上に問題だったのは、知識不足の問題、教育者としての自覚の問題、人格的な問題など、問題の多すぎる人々が「教師」になってしまっていたのである。そして、実力がないという劣等感のゆえにさらに、悪循環へとはまり込んでいったようである。

 

筆者もこうした教師たちが勤めていた小学校で、この時代の子供たちの一人として最初の学校教育を受けたのである。その頃には、学校では次々と困った問題が発生していた。今の時代であったら、新聞紙上を毎日賑わすであろうような事件である。ただ、今の子供たちと決定的に異なっていたのは、子供たちは権力に対して唯々諾々として従い、親にも話さなかったという大きな相違があり、又今の子供たちとは比較にならないほど我慢強かったので、問題は表に出てこなかった。そして、自殺もしなかった。

 

そのような出来事の一つを紹介する。

四年生であったある日のこと、教師が「触ってはいけない」と命令しておいたものを、生徒が触ったという出来事があった。触っても実害は無かったのであるが、生徒が命令に従わなかったということだけで、この教師はカンカンに怒った!そして、14,5名の生徒を後ろに立たせるという罰を与えた。所が、この中の半分以上がえん罪であった。そして、触った生徒の内、数名は罰を逃れて席に座っていた。しかし、それを言って抗議をするという恐ろしいことは生徒には出来なかった!

 

えん罪である生徒は、当然教師の理不尽な罰に納得しがたい。えん罪でなかった生徒も、そんなに悪いことをしていないのに、教師の怒りを不当だと思い、後ろに立たされるというような罰を受けなければならないとは思わなかった。こうして教師に対する怒り、不信感、不平が子供たちの心に渦巻いたので、謝る気にはならなかったのである。

 

「謝れ! 謝るまでいつまでも立たせておく!」教師は怒り狂った!この教師は、戦時中のドサクサに紛れて教員免状を与えられた人の一人で、まともな知識も持っていなかった人であった。そして、感情的にも人格的にも問題の多い人で、劣等感の塊であったので、怒る理由もないのに自分の命令に従わなかったということだけで、事実確認もしないで怒り狂ったのであった。

 

そして、大人の対応をしたのは、立たされていた生徒の一人だった。彼女は間違いなくえん罪であったのだが、誰かが謝らないと解決しないので、代表して謝ったのであった。みんなのために形だけ「謝ってあげましょう」という振る舞いをしたのであった。

 

昔の教師も、権力を笠に着て生徒をいじめた


上の事件から2〜3年後、筆者が中学校、多分一年か二年生だったときのことである。当時学年主任で、理科の教師であった年配の教師が、クラスの一人の男子生徒の行動の一体何が気に入らなかったのか全然分からなかったのだが、突如怒り始めて、「前に出てこい」である。そして、くどくどと「説教」をし、その生徒の人格にまで及ぶ「悪口」を言って、そして、床に正座させてしまった。

 

当時、教室の木の床には油が引いてあった。床になど正座させられては、ズボンが油でベトベトになってしまう。しかし、その床に正座させたのである。普段から悪いことばかりする生徒ではなく、むしろ成績も、クラスで2〜3番で真面目でおとなしい生徒で、生徒間でも人望があった。何を悪いことをしたのか当人も、クラスメートも理解しない理由で、多分教師の虫の居所が悪かったのか怒りを生徒にぶつけたのである。今の子供だったら、もしかすると自殺するかも知れないな、とふと思う。

 

あの教師で忘れられないことが、まだある。理科の生物の授業で生殖のことを教えたときに、信じられないようなみだらな表現をしたことである。「犬が『さかっとる、さかっとる』と言うやろ。」云々である。全く卑猥な表現で、子孫が出来る機構の説明をしたのである。

 

ちなみに彼は、正規の教員免状を持っていたと思う。

 

教師であること

 

今の教師たちが、質が下がっているのかどうか知らないが、教師によるこのようないじめや、質の悪い行動は昔もあった。もっとも、筆者が学校教育を受けたのは敗戦後の最悪の時代であり、また通った学校は少したちの悪い、地域では馬鹿にされていた学校であったことも事実ではある。

 

日本が教育をなおざりにし始めたのはいつからであろうか。少なくとも戦時中は、教育のみならず日本国民が全て使い捨て思想でゴミのように扱われた時代であった。戦後も、教育は決して重要視されてこなかった。常に、支配層の都合のいいようにしか政治は行われてこなかった。そのようなマイナスの「教育」を受けた子供たちが今の大人の姿になったのである。日本国としては自業自得とも言うべきか。

 

折しも、本日は10月22日、今頃大型台風が日本列島を襲う中、衆院議員選挙である。安倍首相が自分たちの失態を隠すために、首相の不当な特権を行使して衆院を解散してしまった大義なき選挙である。人間として人々を思いやる心を養わなかった国の首相の下で、自分自身の欲得でしか動かない国会議員が現れてくる日本国である。弱い者をいじめる首相の治める国では、学校が乱れきるのも当然かも知れない。

 

安心して我が子を学校に託せないので、自分で教育する、いわゆるホームスクーリングをする家庭、あるいは文科省の支配下に敢えて入らない「本当の学校」に通わせる学校が増えている現状を、政治家たちは何と思っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「赤ちゃん 泣いてもいいよ」ステッカー

電車内で、レストランで、赤ちゃんや子どもが泣いたり、騒いだりする場面に遭遇した経験は多くの人が持っているだろう。

 

赤ちゃんや子どもを連れている保護者の対応は、いくら泣こうとわめこうと騒ごうと気にもしない人、子どもをやたらと叱りつける人、脅す人、周囲の人の目を気にしておろおろする人等々、様々である。

 

それで、赤ちゃんが泣いておろおろする保護者のために、「赤ちゃん 泣いてもいいよ」という心優しいステッカーを考え出した人がいる。

確かに、時には赤ちゃんが何故泣くのか分からないこともあるだろう。だが、この世の悪知恵を無意識下に注ぎ込まれてしまった子どもたちはともかくとして、赤ちゃんは単純に泣く理由があるから泣くのである。「お腹が空いている」「おしっこやウンチが出て気持ちが悪い」「車内の空気が悪くて気分が悪い」「暑い、寒い、居心地が悪い」等々、自分で改善できず、また言葉で訴えることが出来ない等、赤ちゃんの側からの主張として「赤ちゃんは泣くのは当然」である。

 

電車の中は、今でも快適な環境ではないが、昔々、筆者がまだ舌が回らなかった頃、「でんちゃ、きらい。くちゃい!(電車、嫌い、臭い)」と訴えたそうである。臭いといって訴えた電車は地下鉄である。大昔の地下鉄は、今の地下鉄とは比較にならないくらい空気が澱んでおり、臭くて、頭痛を催し、吐き気に襲われたことだけは明確に覚えていて、大人になるまで地下鉄は大嫌いであった。赤ちゃんがこれを訴える唯一の手段は、「泣く」ことである。

 

はじめから、赤ちゃんが泣かなくてもいいような状況をできる限り整備し、また泣いた場合は泣く原因を探り当て、解決するのが保護者の責務である。今の時代、現実的には難しい問題は数多くあるとは思うが、夜10時、11時、時には真夜中近くに赤ちゃんや幼い子どもを連れて電車に乗り込んでくる親がそんなにまれではない。赤ちゃんの頃から、大変な生活環境に曝されているようであるから、泣きたい状況は一筋縄ではいかないのかも知れない。

 

 

18:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark
「築城3年、落城1日!築き上げたものは一瞬に崩れてしまう。」 安倍総理、理解して言ってますか?

逃げ回っている総理、内閣府。

こんなことを真正面を向いて堂々と言うので恐ろしくなる。

次から次へと言葉を探して、大きな顔をして逃げて回る国の代表。

 

何故こんなにも自信を持つことが出来るのか?

何が何でも、保守の自分が総理である間に憲法を変えて・・・・戦前の日本に戻りたい?

 

日本はどこへ行く?世界はどこへ行く?

互いに「やくざ」の恐喝を繰り返す世界、日本!

人間としての尊厳を取り戻したいものである。

16:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark
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安藤和子 文 / 神谷直子 絵
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