** 聖書の人々 **  人類の始祖(1)アダム
[1]序

 私たちのひぃひぃひぃひぃひぃひぃぃぃぃっっ----------------------------おじいちゃんと
            ひぃひぃひぃひぃひぃひぃぃぃぃっっ----------------------------おばあちゃんの話

 「聖書の人々」の最初に、人類の始祖アダムについて書きたいと思った。ところが、アダムは妻エバ抜きには書けない、アダムとエバは二人で一体であることに気が付いた。後に稿を起こすアブラハムも、美人の妻サラ抜きには語れないという気がしている。こういう夫婦は幸せである。

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2章24節)

 聖書の他の人々を考える時、このようなカップルは余り見いだせない。ノアの奥さんは名前さえ書かれていないし、ダビデも、ましてソロモンなど結婚生活は幸せそうに見えない。イエス・キリストのお母さんマリアは夫ヨセフと幸せな日々を過ごしたであろうと思われるが、ただ、ヨセフの影は薄い。

[2]すべての悪の根源はアダム?

 創造主の御手で最初に創造されたのはアダムである。ついでにここに書き足しておくと、エバも創造主によって直接創造されたことは事実であり、この点においてアダムと変わりはない。

 アダムのことが話題になる時、彼の愚かな大罪が槍玉に挙がり、彼が偉大な創造主に叛逆(はんぎゃく)したので、この地上に死が入り、悪が充満した。地球は今真っ逆さまに滅びに向かいつつあり、各種各様の混乱・殺戮(さつりく)の繰り返し・戦乱など人類の苦しみは底なし沼に引きずり込まれ、救いがたい状況が誰の目にも明らかであるが、これら全ての悪の根源はアダムにあるという側面だけが語られる。

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった(ローマ人への手紙5章12節)

adam_1.png 確かに、その側面だけを取り上げればその通りではあるが、多少よその世界の出来事みたいな雰囲気が伝わってきて、かつて生きていた血の通った人であったという温かい息吹が感じられないアダム観に聞こえてくる。人類の始祖なのに、聖書には余り多くは語られておらず、しかも、新約聖書で語られているのは、もっぱら罪の話、アダムが触れられたくない大罪について、である。
神話扱いされて、実在の人物ではなかったかの如き取り扱い、創造された途端に叛逆し、その後、影の薄い人生を送った人物、あるいは、930年の長い年月、悪いことばかり次々としでかして、主の御顔を避けて隠れ通したかの如き人物などなど、人々のアダム像は極めて評価が低くて、始末に負えない。

 もっと詳細に創世記に書いて欲しかったと、筆者は秘かに思う。しかし、主はこれで充分であるとお考えだから、これ以上の記録は人類に与えられなかったのであろう。それでも、私たちの原点・始祖であるアダムの姿はもう少し明確になると良いと思うので、アダムがどのような人であったかについて聖書の中を探し求め、可能な限り理解したいと思う。

[3]高度の知恵を授け、地上を治める任務を与えられた人

アダムが、よもや洞窟に住み、サルのような体型をした野蛮人の姿をしていたと思い浮かべるクリスチャンはいないだろう。

 私たちの始祖、大先輩であるアダムは、私たちのひぃひぃひぃひぃひぃひぃぃぃぃっっ--おじいちゃんで、主と顔と顔を合わせて直接話し合った人、私たちにとって慕わしい人だと筆者は感じるのである。
 主がお造りになった世界はどのようなものだったのだろうか? 最初の人、二人はどのような生活を地上で営んだのであろうか? エデンの園で穏やかで楽しい、優雅な生活をしていたのか? のんびりと昼寝をして遊び暮らしていた、全く働かなくてもよかったなんて、何と羨ましい? 

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章27, 28節)

adam_2.jpg ところが、主は「地を従えよ」と土地を管理する任務を与えられたのである。その土地には、主が「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を」地に生えさせられて、それをしっかり管理しなさいと命じられたのである。また、海にも空にも陸にも動物を創造なさったが、それら「すべての生き物を支配せよ」と命じられた。後に、洪水を地球にもたらされた時に、主は全種類の動物たちを箱船に導いて水から救われたが、その時に動物たちが平穏に船の中で生活するようにと管理責任をノアにお与えになった。
 今の地球で農業や林業を行うような大変な作業ではないだろうが、それでも地上の植物を管理するのは、昼寝していて良いというものではなかっただろう。それは2章5節に「土地を耕す人」という記述があることからも察することが出来る。すなわち、人が創造されたら、土地を耕すことになっていたということにほかならない。この5節を、ノアの洪水まで雨は降らなかったという聖書的な裏付けとして誤解されて引用されることがある。しかし、雨が降らなかったのは「まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった」時、そして「土地を耕す人もいなかった」時のことである。すなわち、創造の第三日目以前の状態の描写なのである。

地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。(創世記2章5節)

 創造された全動物が仲良く、平和に生きていくのを管理するのもまた、一瞬にして出来るというようなことではなかったはずである。ただ、主に与えられた任務を果たすのは、苦労ではなくて楽しい労働であったはずである。すなわち、主は働くことの喜びをアダムとエバに、すなわち人類に与えられたのである。労働が苦しみの代名詞として使われるようになったのは後のことであるが、しかし、今の社会でさえ、労働が苦しみだけではないということに同意する人々は大勢いるだろう。

 この広大な大地、全種類の動物たちを治める任務を遂行するには、高度の知性、知恵、能力、深い洞察力、全体を統率する力、動物たちを愛おしむ心などが備わっている必要がある。アダムやエバがそういう力を持っていたと書かれてはいないが、しかし、そのような様々な能力を付与したからこそ、全知全能の主はその任務を与えられたのである。

 主は創造なさった全動物を連れてこられ、アダムに名前を付けさせられた。そして、それぞれの動物の名前は、彼が名付けた通りになった、創造された動物の種類は今存在する数よりは相当少なかったとは思われるが、それでも短い時間の間に適格な名前を与えるほどに優秀な人物であったということであろう。だからこそ、主はアダムの付けた名前を採用なさったのである。

 
 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人アダムのところに連れて来られた。人アダムが生き物につける名はみな、それがその名となった。(創世記2章19節)

 
 アダムにとって最初の任務遂行であり、それは主の御旨にかなうものであった。そして、主が意図された学びもすることが出来た。

 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。(創世記2章20節)

 「動物がアダムの仲間になれるはずはないではないか、そんなことは初めから分かっていたのに、創造主には分からなかったのか」あるいは、「主は失敗されたのだ」、などと考える不遜な人もいるようである。しかし、もちろんそんな訳はない。創造主は全知全能である。全てのことを見通しておられて、その上でアダムが学ぶべきことを学ぶようにと導かれたのである。そして、アダムは主の創造物を拝見し、名前を付けて、この生き物たちが幸せに生きるように管理責任を与えられたこと、そしてこれらは自分の仲間ではないことを学んだのである。

 この時点では、地上には創造主とアダムと、そして動物たちしかいない。
静かなエデンの園である。この後で、次の登場人物が創造されるのであるが、愛するエバの話は少し後に続き物語とすることにして、一休みする。

 ***** 今後、アダムの妻、人類の母エバ、及びその後の聖書の人々については、このブログではなく公式サイト http://andowako.jp/ に順次、継続して記載することにする。*****
 
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聖書の人々
はじめに

[1]永遠のいのち

 キリスト教や聖書について筆者は全く無知な、その意味では平均的な日本人の一人として、長い年月を生きてきた。それが大きな恵みを頂いて、イエス・キリストを救い主として信じる者とされたのである。若い人とは異なり、人生観・世界観が確立した後に聖書の世界に飛び込んだので、まるで宇宙服を着て月面をフラフラと歩いているかの如き、竜巻に巻き込まれて空高く舞い上げられたかの如き、収拾不能な大混乱に陥ってしまった。
信仰に至るまでの証詞は、筆者のサイト、http://andowako.jp/ のプロフィルに2分冊にして紹介している。

 キリスト信仰を与えられた直後、大抵の人は右も左も解らなくても歓びの中に浸っている。ただ嬉しく、喜んでいる。筆者もそのようであった。大混乱の中にいた事実とは一見矛盾するようであるが、しかしキラキラと輝いていた。

[2]「聖書の人々について書きなさい」という召命

 このような不安定の中での喜びと混乱からひとまず立ち直り、つむっていた目を大きく見開いて聖書に親しむことになった。聖書は読む度に私たちに新しい側面を発見させ、読むほどに噛みしめるほどに味が出てくる不思議な書物である。主が私たちのために書かれた人類の歴史であるから、登場人物は名前が記されていなくても重要な人物なのだろう。まして、その名が記されている人々は、それが例え大悪人であろうとも、人類史として非常に重要なのだと思われる。これらの人々や出来事を主が敢えて記録に書き留められた理由は明確に解るわけではないが、歴史の様々な側面のうち、重要な出来事が書物として私たちに与えられたのである。そして人々について美しい側面だけではなく醜い面も、驚くほど赤裸々に書き記されているのである。王たち、預言者たち、祭司たち、新約聖書の使徒たち、働き人たち、律法学者たち、十字架から昇天に至るまでイエス様に付き従った女性たち、その他多くの人々の人間としての表も裏も書き留められているのである。

 それが大切な働きをした人であってもなくても、あるいは大失敗を演じた人であっても、それぞれが魅力溢れる人々であり、人々への主の慈愛をあちこちに感じさせられる素晴らしいドラマがそこに展開しているのである。

 このような中で、もう四半世紀近い昔、愛すべき聖書の人々について書きたいと思うようになった。この思いは日を追うにつれて強くなり、これは主に与えられたものであると思うようになった。それは、主の創造を伝えなさいと召し出されたのと殆ど時を同じくしていたような気がするが、創造宣教への召しの方が少し後であったかも知れない。

 ただ、この夢だけは、恥ずかしくて今の今に至るまで誰にも語れなかった! 今、すでに20年以上温めているのであるから、漠然(ばくぜん)とした思いだけではなく頭の中では相当具体化していたのは事実であるが、一字も書いてはいないのに誰かに語れるわけがない。そもそも聖書を読み始めたのは、生き生きと頭脳が働いている年齢をとうの昔に過ぎ去ってからであり、それ以後も聖書について正規の勉強をしたこともなく、しっかり学んではいないという自覚のある人間の拭いがたい劣等感、自信のなさなのである。思いは募っても文字として表現できないかも知れない、ただの夢かも知れない等と、どんどん自分を逃れられない洞穴の中に貶(おとし)める思いに閉ざされ、ズタズタになりながら、それでも思いは募るばかりで時間だけが経ってしまった。

 神学校で勉強したわけでもない、牧者としての訓練を受けたわけではない、しかも若くない頭脳は、読んでも、読んでもすぐ忘れてしまうという念の入れようである。もっとも「読んでも、読んでも」と大きな顔をして言えるほど、聖書に親しむ時間はなかった。聖書知識が貧弱という表現さえおこがましい、まるきり知らないのである。そんな人間がどうしてこんな思いを抱くのであろうかと、全く戸惑うばかりであったが、聖書に登場する人物に親近感を覚えたこと、そして元々文章を書くのが子ども時代から大好きであったことも相俟(あいま)って、どんどん夢が膨(ふく)らんだ。

 キリスト者として落ち着き始め、キリスト教の世界、聖書の世界を見渡した時に、足許で地滑りが起こっているような不安定感、もどかしさに襲われた。先人の大きな業績も聖書のことも信仰のことも、まだ何もよく解らないまるきりの幼児ではあったが、それでも、すくい取った砂が指の間からサラサラとこぼれ落ちるような感触は気持ちが悪かった。この不安定とじっくりと向き合ってみて分かったことの一つの要因は、聖書解釈がまるきり男性の視点で捉えられているということだったのである。書きたいという熱意を生み出し、支え続けた最も大きな理由は、聖書に書かれている出来事や人々を、女性の視点・感性で眺め直してみたいという思いであったようである。


 
[3]女性の科学者としての視点・感性

 聖書に書かれている人類史上重要な人物は、私たちの人生に様々な教訓を与え、どのように適用すべきかを教え、促してくれている人々である。彼らがどのように生きたか、何をどう感じていただろうかという理解を、女性の目で見つめて描いてみようと思う。

 聖書の時代を生きた人々は、今よりももっと男性優位の時代を生きていた。一夫一婦を主が定められたにも関わらず、それを破った人々、遊女がここかしこに出て来て、初めて聖書を読む人に戸惑いを与えるような時代で、主が遊女を是となさったのかと錯覚さえしてしまいそうである。弱い立場の女性の中でも一番弱く虐げられていた遊女たち、奴隷たちの姿を女性の視点で捉えたときに、どのような景色が見えるかを、描き出したいと思う。

 筆者は人生の大半を科学者として生きてきたので、それが何であっても考える前に科学者の視点に立っており、論理的思考回路が自動的に働いている。そして、科学者はデーター、事実を大切に取り扱い、データーを改ざんしたり、歪曲したり、捨てたりということをしない。データーを自分の好みに任せて歪んだ理解をしたりしないで、真正面からデーターと向き合うのである。
 したがって、聖書を読むにあたっても、聖書が創造主の著書であると知ったとき、聖書と真正面から真摯(しんし)に向き合い、掛け値無しにそのまま読むのが科学者である。但し、全く誤りがないのは創造主がお書きになった原典のみであり、それ以外の翻訳はどこまでも翻訳であるという現実とも向き合わなければならないのである。聖霊に導かれて翻訳されているから翻訳聖書も無過誤であり、一字一句そのまま受け取らなければならないと主張する方々もいるかもしれないが、数多くの異なった翻訳書があるという事実は、翻訳は無過誤ではないということを示している。もしも翻訳聖書も無過誤であるならば、言語毎に翻訳聖書はただ一つで良いはずである。ところが、英語に至っては非常に多数の翻訳があるし、日本語も10種類くらい存在している(文語訳、口語訳、新改訳、共同訳、新共同訳、現代訳、リビングバイブル、創造主訳、現改訳(2015年発刊予定)、フランシスコ会訳など)。科学者であるからこそ、このような数多くの翻訳聖書を読み比べることによって、微力ではあっても理解を少しでも原典に近づけたい、主の御旨を尋ね求めたいと思うのである。

 科学者であるということをことさら意識して聖書の人物を描く積もりはないが、意識するまでもなく女性であるという事実と、そして無意識下に科学者である視点、感性、体臭、論理的思考回路は働き続け、その土台のもとに聖書の愛すべき人々を観察しているので、それを率直に描いてみたいと思っている。

***** このブログには、人類の始祖「アダム」については別項に記載する。なお、それ以外は、このブログではなく公式サイト http://andowako.jp/ に継続して記載する。*****

 
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