ユダヤ人を救った音楽家近衛秀麿と、A級戦犯となり服毒自殺した異母兄、近衛文麿

生まれながらに栄誉と権力に包まれていた近衛家

 

戦争責任を問われて巣鴨拘置所に呼び出され、裁かれる前に自分で裁いて、服毒自殺してしまった元首相、近衛文麿(写真、Wikipedia)のことを覚えているのは、筆者の世代が最後だろうか? 今の若い人々は歴史で教えられても、戦争責任を問われて絞首刑にされてしまった東条英機の名前は覚えていても、自殺して逃げてしまった当時の近衛家の当主、近衛文麿の名前は忘れられているかも知れない。そして、若しかしたら異母弟の近衛秀麿の方が知られているのかも知れない。

 

近衛文麿の肩書きを書き連ねると、「輝くばかり」の「栄誉」に包まれ、今の人々には何のことやらと思われるような、仰々しい肩書きである。生まれは、五摂家(公家の家格の頂点に立った五家・・・近衛家・九条家・二条家・一条家・高司家・・・)の近衛家の第30代目当主で、生まれながらに栄達を約束された家系に生を受けた、後陽成天皇の12世孫にあたる。

 

勲一等旭日大綬章、公爵、貴族院議員、貴族院副議長・議長、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、農林大臣、司法大臣、国務大臣、大政翼賛会総裁等を歴任した。第一次近衛内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。国内の全体主義化と独裁政党の確立を目指して、大政翼賛会を設立し総裁となった。

もっとも、表向きにはこのように栄誉を得ていても、彼の人生をサラッと見てみると、仰々しい家柄に生まれてからの子ども時代から、どうやら幸せではなかったようであるが、それはこの小文とは関係が無いので省略する。 

 

外交政策では、八紘一宇と大東亜共栄圏建設を掲げて、日独伊三国軍事同盟や、日ソ中立条約を締結した。言うならありとあらゆる栄誉と権力を手中に収めたのである。                                                注:八紘一宇とは「天地四方八方の果てに至るまで、この地上に生存する全ての民族が、まるで一軒の家に住むように仲良く暮らすこと」という意味である。

 

A級戦犯となり、青酸カリ自殺した近衛文麿

 

敗色が濃くなると、昭和天皇に「近衛上奏文」などを出して、戦争早期終結を唱えたりした。戦争責任から逃げだそうとしたのであろうか?

 

戦争終結後、東久邇宮内閣で国務大臣として入閣し、大日本帝国憲法改正に参画しようと意欲を燃やしたのは、よもや戦争責任を問われるとは予想していなかったのであろうか? 開戦前の日米交渉に自身が果たした役割が書かれた手記が朝日新聞に掲載されたが、これを読んだ昭和天皇は「近衛は自分にだけ都合の良いことを言っている」と呆れ気味に語った。

 

近衞の戦争責任に対する態度は、近衞自身の責任をも全て軍部に転嫁するものであるとして当時から今日に至るまで、厳しく批判されている。親交のあった重光葵からも「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と厳しく批判された。

近衞は『世界文化』に「手記〜平和への努力」を発表し、「支那事変の泥沼化と大東亜戦争の開戦の責任はいずれも軍部にあり、天皇も内閣もお飾りに過ぎなかった」と主張した。あわせて自身が軍部の独走を阻止できなかったことは遺憾である、と釈明した。

 

福田和也(評論家、学者)は、伊藤博文(1885.12~)から小泉純一郎(~2006.9)までの明治・大正・昭和・平成の総理大臣を点数方式で論じた著書の中で、近衛(1937.6.4~1939.1.5 & 1940.7.22~1941.10.18, 在任期間、合計2年10ヶ月)のあまりの無責任さの故に、最低の評価点を与えている。

筆者は近衛文麿よりむしろ、もっと無責任で非常に短命であった総理大臣を上げたい気がするが、最低だと評価する対象は故人から選ぶ方が差し障りが無いということだったのであろうか?


ともあれ、巣鴨拘置所に出頭を命じられた日の未明に、近衛文麿は青酸カリを服毒して自殺した。

 

異母弟の近衛秀麿(写真、1939年、Wikipedia)

 

音楽家の秀麿は兄と違って気の強い人物であった。秀麿は1936年以降、終戦まで政府音楽大使としてヨーロッパで指揮者として活動した。当時ナチスが政権を握っていたが、秀麿はナチスを嫌っており、たびたび彼らの意向を無視したことで嫌がらせを受けながら公演を続けていた。日本のオーケストラにとってパイオニア的存在であったが、様々なことが相俟って音楽家としての評価は必ずしも良くない。・・・がそのことは、本稿の主題ではないので触れない。

ある日、総理となった文麿から国際電話があり「ドイツ大使館からお前のことで文句を言われている。総理の面子を保つため、ナチスの言うことを聞いてくれないか」と言ってきた。秀麿は兄の弱気ぶりに憤慨して「弟が自分の信念を貫くために苦しんでいるのに、そんな言い方はないだろう!」と言い返した。

以後、終戦になるまで文麿と秀麿は音信不通になってしまった。

戦後、兄弟が再会を果たしたときに、文麿は「お前は自分の気持ちを貫いて立派だったよ。お前に比べたら自分は何も残せなかった」と、かつてのことを繰り返し詫びたという。また、「お前は音楽家になって良かったなぁ」というようなことも言ったようである。

文麿の悟りきったような態度に、秀麿は兄の死を予感して、毒薬を隠し持っているのではと探し回ったそうであるが、文麿は入浴の際にも肌身離さず持っていたので家族にも見つけることが出来なかったという。

 

ユダヤ人音楽家との交流・逃亡を援助

 

日本のオーケストラの礎を築いた後、再びドイツへ渡り、ベルリン・フィルをはじめ、数多くの交響楽団の指揮をした。ところが、ヒトラーの率いるナチス・ドイツによる動乱の時代に突入したが、近衛文麿の弟として日独親善の先頭に立っていた秀麿は、身に危険が及ぶことも顧みずユダヤ人音楽家の国外亡命を援助した。秀麿はユダヤ人音楽家たちの希望の光となった。

第二次世界大戦が勃発した後も、秀麿はドイツに留まって、戦乱に傷つく欧州各地で指揮棒を振り続け、窮地に陥ったユダヤ人音楽家の逃亡を陰で手助けした。

 

ユダヤ人を助けたことでは、「6000人のビザ」で杉原千畝が最も有名であるが、それ以外にも様々な民間人がこのように、大小様々な援助の手を差し伸べている。人の歴史には語られなくても、神様の記録にはしっかり留められている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「しつけ?」という名目で、小学2年生の7歳の少年を山の中に置き去りにした親

山の中に7歳の少年を置き去り

 

日本中のみならず、世界中が巻き込まれて、あれやこれやの議論が紛糾したこの事件。この少年は親の言いつけをきかず悪さをし続けたので、とうとう車から降ろして山の中に置き去りにしたという。

 

置き去りにして5分後に子供を下ろした場所に戻って見ると、そこにはいなくなっており探したが見つからなかった。こうして子供が迷子になって大騒ぎになったのであるが、警察には5分後と証言しているが、本当に5分だったのかどうか。親に置き去りにされて、子供は車を、すなわち親を追いかけなかったのだろうか? とすると、何故見つからなかったのだろう? また、この年齢の子どもなら親に置き去りにされれば、普通なら立ちすくんで、とても動けないだろう。そして、そこで待っていれば連れ戻しに来てくれると、親を信頼するか、親を追いかけなかった親子の関係に大きな疑問を抱かずにはおれない。

 

ともあれ、少年は行方不明になってしまって、大騒動になってしまった。

 

警察犬が反応せず。両親の証言が二転三転

 

両親は、初めは「山菜採りの途中ではぐれた」と警察に説明したが、車に山菜が全くないことを指摘されると、「人や車に石を投げつけたので、しつけのために車から降ろした。5分後に戻ったときには姿がなかった」と発言を変えたという。また、着ていた洋服も「Tシャツにジーパン」と言っていたのに、途中から「紺色のジャージー」に変わった。

 

はぐれた場所が事実と異なって申告されれば、警察犬が反応しなかったのは当然である。両親が嘘を申告していれば、見つかるわけがない。大々的な捜索活動が繰り広げられたが、全く見つからなかった。

 

6日ぶりに、5キロ離れた自衛隊の演習場で発見された

 

見つけられた少年はそこまで歩いて行ったと証言し、やや衰弱しているものの外傷はなく無事であった。両親の供述が二転三転した不可解な親の行動、捜索が難航した様々な経緯が相俟って色々と調べたのであろうが、事件はあまり明確にならないままに、子どもが無事であったことで事件性はないと警察は最終的に結論して、終止符を打った。


無事に保護されたからよかったけれど、もし何事か起こっていたら、社会全体や警察の対応は全く異なったものになっただろう。

 

山の中に置き去りにする「しつけ」・親を追わなかった親子関係

 

まず、日本の社会での反応は、賛否両論色々噴出したようである。子どもはなかなか言いつけをきかないから、置き去りにしてもしょうがないという見解もあれば、しつけにしてはやりすぎだという見解もある。

 

近頃の子どもは親の言うことなどきかないから、厳しすぎると思われるほどのしつけをしなければならないのだという親の意見も提出されている。確かに、昔のようにいかないのは事実であろうが、7歳の少年が親の手に負えない状況になるのは、親の責任こそが甚大である。

そのような、言うなら歪んだ親子関係にしてしまったのは100%親の責任である。たった7歳の子どもが親の手の指の間からポロポロとこぼれ落ちてしまったのである。親と子どもの間に心の絆が築かれないままに、親は子どもを守る責任を忘れ、子どもは親が守ってくれるという安心感を手に入れないままに7年の歳月が経ってしまったのだろう。

 

アメリカ人の一般的な反応は手厳しい。「子どもを置き去りにしても子どもに恐怖しか与えないので、親の責任を放棄することであり、虐待である。子どもの安全を第一に考えるべきである。」
フランスの反応は、一般的に置き去りを肯定する意見が多いようである。

 

その土地についてよく分かっている時には、「置き去り」という手段もありかなと思わないでもないが、未知の土地、ましてや山の中に7歳の子どもを置き去りにするのは、やはり責任放棄、虐待であると考えざるを得ない。子どもの姿を視界の中に留めて、子どもの安全を確保するのは親の最低限の責任である。

 

そんな親子関係であるから、置き去りにされた子どもは親を信頼できなかったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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吉田松陰・深い思索をした哲学者・時代を先駆けた故に投獄、そして斬首刑
長州の天才児:激動の時代には、英雄が現れる

吉田松陰については、名前だけは歴史で教わるのでほとんど誰でも知ってはいるが、明治維新の理論的・精神的指導者・思想家・倒幕論者である。私塾「松下村塾」で、明治維新で重要な働きをする多くの若者、伊藤博文・高杉晋作・山縣有朋・木戸孝允(桂小五郎)・久坂玄瑞・品川弥二郎などの弟子を育てた。
時の政権に反対して断罪されたこともよく知られているが、政府に殺されたとしても吉田松陰が悪人であったと理解している人は今はいないだろう。

彼は、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄され、取り調べの結果、牢屋敷にて斬首刑に処された。若干29歳であった。
「時の権力に抵抗して斬首刑にされた」というだけならば、権力者はおべっかを使わない相手をいつでも抹殺するので、ある意味でどうということもない。しかし、それまでのわずか29年の生涯に彼が築き上げ、後の世に残したことの大きさには目を瞠るものがある。今の時代で考えると、29歳と言えば、ヒヨコである。しっかりとした自分自身の思想を構築して何かをなしている、あるいはなそうとしている若い人材が一体どこにいるのであろうかと、首をかしげざるを得ない。

世の激動期には、例えば江戸末期から明治維新にかけて、優秀な若者が輩出した。
あの頃の若者は、日本を憂い大義に立って、世の権力者から迫害されてもものともせず、自己を殺して奮闘していた優秀な若者がいた。今の狂った世にこそ、そのような優れた若者の輩出を待ち望む。あの時代の思想とは異なったものであるべきだが、二十一世紀の吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛などなどのようなお金に取り憑かれていない大人物が出てほしい。

手厳しい吉田松陰の戒め
  
彼が遺した戒めは「もっとも」と思われるものも数多く、今の時代にもしっかり受け止められるべきものが多い。しかし、何とも受け入れがたいような手厳しすぎることも書かれている。

「学問は藩に役立てるためにやっている公のこと。その最中に虫が止まって痒いというのは私事である。」と、蚊が刺してもそれに煩わされてはならないというのは、どうも理解できない。公務で旅をするときも、公務のためには私事を棄てなければならない。「用を足すのは私事である。用を済ませた後、走る。私事の無駄な時間は走って取り戻さなければならない」という手厳しさである。公私混同の甚だしい汚れきった桝添東京都知事の耳の穴をほじくって怒鳴って聞かせたい。

「江戸の学者は皆、学問は生計を立てる手段と考えている。人が貫く道として学問を志す人がいないのはどういうことだ」

「佐渡の金山では奴隷のようにこき使われ、盛岡では優れた軍馬が生産されるが利益は官が取り上げる。国の護りの基礎を支える人々が、幕府や藩に追い詰められている現実に私は疑問を抱く」

吉田松陰が死罪になるまで

吉田松陰が密航を企てたことは有名であるが、共に密航を企てた身分の低い金子は牢で死に、松陰は生き延びた。身分の低い者が志を果たせない国の現状に松陰は疑問を膨れあがらせていく。

長州藩の藩主宛に意見書を提出した。
「将軍は天下の賊である。大義に照らしてこれを討滅して少しも許してはならない。」
高杉晋作や久坂玄瑞等5名の弟子たちが、「決起は容易でなく、かえって藩に迷惑が掛かります」と松蔭をいさめる血判状を出したが松陰は聞き入れなかった。

幕府批判する学者と密会したという疑いで幕府により取り調べを受けたが、本来は軽い罪で済みそうであった。しかし、老中の暗殺を企んでいたと言ったため、結局、1859年、斬首された。

 「留魂録」:獄中で 門弟たちに当てた遺書

江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書かれた遺書で、全16節からなる。

冒頭に辞世:身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

第八節は、松陰の死生観を語るものであり、現代の私たちの心にも強く訴えかけてくるだろう。

第八節(現代語訳)

今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えるからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。

私は三十歳で生を終わろうとしている。
未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。

だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳のうちに自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。


もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。


松陰は、大きな志を達成するために、常識にとらわれないで行動するという意志を「狂」の文字に託した。
松陰の死(1859年)の8年後、幕府は倒れた。

吉田松陰語録
 吉田松陰の見解は、現代においても十分重要な訓戒である。

 *私心さえ除き去るなら、進むもよし、退くもよし、出るもよし、出ざるもよし。
 *小人が恥じるのは自分の外面である。君子が恥じるのは自分の内面である。
 *人間たる者、自分への約束を破る者がもっとも下らぬ。死生は度外に置くべし。
 *世人がどう是非を論じようと、迷う必要はない。世俗の意見に惑わされてもいけない。

 *学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。
 *君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。

 *世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。
 *思想を維持する精神は、狂気でなければならない。志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない。
 *だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。



 

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言葉は生きている(8):町村前衆院議長の「弔い合戦」??をして選挙に勝った!崩落した日本語
北海道では、昨年(2015.6)死去した町村信孝前衆院議長の補欠選挙が行われた。娘婿が地盤を引き継いで、「弔い合戦」を呼びかけて戦ってきたのだそうである。・・・結果は、大接戦の結果、偽りの号令「弔い合戦」を呼びかけて、日本人のお涙ちょうだいに訴えた効果が出たのか?

さて、彼らが間違えて使った「弔い合戦」という言葉。
町村氏は、政治的反対勢力に殺されたとでも言いたいのだろうか?

この「弔い合戦」は、昨今、このように間違って使われることが非常に多い。
弔い合戦の本来の意味は、「戦死者のかたきをうって、その霊を慰めるための戦い。弔い戦さである。」
例えば、歴史上で有名な弔い合戦は、織田信長が本能寺で家来の明智光秀に討たれてしまった後で、敵討ちを豊臣秀吉が行った合戦が「弔い合戦」である。

あたかも長く赤い舌をペロペロと舐めるように出して、不気味な姿と目を光らせている毒蛇のごとく生きている日本語。「生きている」とは、本来このような乱れ・崩れを意味してはいないはずなのだが・・・。健全な社会で、健全に生きている日本語であってほしいと願わずにはおれない。


 
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言葉は生きている(7):「させていただく症候群」・敬語の乱れ
敬語は日本語だけか?

「日本語には複雑な敬語があって煩わしい」、「英語には敬語がないのであっさりしている」という「常識」が日本の社会に横行し始めたのはいつ頃からだろう?
そして、日本人自身の手で自分たちの言語をけなし、突き崩し、訳の分からない言語にしてしまおうという暗黙の力が社会に働いているようである。確かに、日本の身分社会の中で築き上げられてきた言語は、複雑で微妙なニュアンスを含んでいたり、敬語が微妙に入り組んでいるのは事実である。しかし、英語には敬語がないと錯覚して英語圏に出かける人々は大失敗をしでかすのである。

人間が二人いると必ず上下関係を生み出すのは、ロビンソンクルーソーがフライデーとの間に築いた主従という人間関係が好例だろう・・・作り話ではあるが、人間の機微を雄弁に物語っている。英語も、その頃のイギリスの厳しい上下関係のもとに築き上げられた社会規範の中で生まれ、使われてきた言語の一つである。家族間の会話、ごく親しい友人間の会話、初対面の人の間での会話、職場やその他の上下関係のある人の間の会話は、相互に異なっているのである。

自分の言語に愛着を失った日本人

日本人であるということに自信を失ったのは、紛れもなく「無条件降伏」から、「アメリカの進駐」によって「国土占領」の屈辱を味わい、植民地に近い状態になったことがきっかけだろう。沖縄はアメリカの支配下に置かれ、一番良いところは全部米軍の基地として没収され、今なおそれがほとんどそのまま続いている。沖縄だけではなく、本土にも数多くの米軍基地が相も変わらず存在している。そして、米国の兵隊による無法な犯罪は後を絶たず、それを日本は裁くことさえ出来ない。日本国内の至る所に、日本の司法が届かない「アメリカ」が存在している。

このような屈辱を、屈辱と認識しない日本人! 
様々な苦難を「肩すかし」のような驚くべき一手を用いて、すり抜けるすべを日本人は知っているのであろうか? 

第二次大戦によって、国土が蹂躙されたのはドイツも同じであった。しかし、ドイツは罪、責任をヒットラーとナチスにすべて負わせることが出来たという特殊事情があったせいであろうか? あるいは、ヨーロッパという国同士がせめぎ合いをして生きてきた歴史的な訓練を経てきたせいであろうか? ドイツは敗戦から立ち直り、本当の意味の「自立」を取り返したように見える。

一方日本は、見かけ上の自立をしたように見えながら、アメリカが整えた道を引きずられて歩いてきた。日本国中に基地というアメリカをいっぱい背負って、そして日本国全体はアメリカに上手に乗せられ、アメリカの「子分」になっていることさえ気づかない。いつまで経っても対等の親しい関係を築き上げることが出来ないのである。

そうした自信喪失の中で、思い・意思・感情を伝える言語は当然のこととしてかき乱されてしまったのである。
正しい日本語を護ろうとする意見は、後ろ向きであるとか、進歩を阻むとかと非難中傷のやり玉に挙げられ、その非難の頂点が敬語であり、また難しい漢字も極端に制限をするに至った。言葉遣いも乱れに乱れた。

行き過ぎへの反省?

そして、そのような流れに対する反省が生まれ、一方で極端に難解な漢字を競う「漢字検定」みたいな動きがあり、一時は大流行したようである。送り仮名の付け方や筆順もどんどん変更され、筆者などが昔教わった知識の多くが、「間違い」だと決めつけられるが、・・・言語のルールをこんなに、どんどん変更してどうするの?という感じである。

そして、一方では、敬語の問題である。
実は、正しい敬語を知っている日本人が少なくなった。国語を教える教師たち、正しい言語を使わなければならないアナウンサーや文筆業・・・新聞記者など。小説家も一応この中に入れても良いが、小説家は奇を衒うところがあるので、必ずしも正しい言語を使わないようである・・・の人々が、間違いだらけの日本語を使っている。
東京人は、自分たちは標準語を使っていると誤解しているが、彼らは東京弁を喋っているのである。
頻繁に聞くのは、「はじ」である。アナウンサーが「端」を「はじ」と読むのであるから、「恥」だよねと思う。

相手に媚びるために使う間違った敬語・「させていただく症候群」

敬語の使い方は確かに難しい一面はある。特に、学校の教師が知らないのだから、それらの教師に教わった人々が正しい使い方を知知る機会は少ない。
だが、敬語排斥が行き着くところまで行った後に、漢字同様、揺り返した来たようで、それがもう10年にもなるのだそうである。「敬語を使わなければならない」と言われると、何でもいいや、何にでも敬語を使ったら良いのだろうと思うらしい。

ペットにも、ご飯をあげる、散歩に連れて行ってあげると敬語を使う。物体にも敬語を使う。車を洗ってあげて、鉢植えのお花に水をあげて、道路のお掃除をしてあげる。「感動させていただきました」のように、本来配慮したり遠慮したりする必要がないのに使われることも頻繁にある。「感動しました」が正しい日本語だろう。本来謙遜語で語らなければいけない肉親のことまで、「お」がついて「さん」がついて、そして敬語である。「私のお母さんがお洗濯をなさった」「私のお父さんが元気になられた」に至っては、開いた口がふさがらない。そうかと思うと、「さん」を付けてはいけないという中途半端な知識を駆使して、自分の親のことは「父」「母」と言うべきところを、「父親」「母親」と言う人が増えている。謙譲語を知らないのもほどがある。

敬語を使うべき対象ではない時に敬語を使い、本来敬語で表現しなければならないときに、かえって敬語を省く。そして失敗する。結局、しっかり知らないために「思い切り重ねて丁寧に言ったらそれで良い」みたいな、ダブル敬語、トリプル敬語も多用されるようになった。
同じ「見る」という動作であっても、三通りの表現があるのである。敬語では、相手に敬意を表す尊敬語(ご覧になる、見られる)、自分がへりくだることで相手を高める謙譲語(拝見する、見せていただく)、相手に敬意を表して上品に言い表す丁寧語(見ます)がある。面白いのは、「食べる」という言葉である。尊敬語は(召し上がる・・・こんな言葉は聞かなくなった)、謙譲語は(頂く)であり、丁寧語は(食べます)である。ところが、どうも「食べる」という言葉が消えてしまっているようで、「しょくする」という変な言葉に入れ替わっているようである。

心がへりくだっていないのに、へりくだらなければならないという緊張感のなす技か?敬語に自信がないからついつい過剰に敬語的な表現を使ってしまうのかも?「〜させていただく」を連発するのを聞かされることがよくある。だが、「感動させていただく」などという日本語はないし、自己紹介の時に、自分が「〜を担当させていただいて」「〜この資料を準備させていただいて」「配らせていただいて」「ご説明させていただきます」というのは、日本語とは言えないだろう。たいていの場合は、単純明快な丁寧語に置き換えることが出来る。

こういうおかしげな言葉を使う症状を、「させていただく症候群」というのだそうだ。





 
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言葉は生きている(6) 敬語は煩雑で難しい? ダブル敬語の横行!
日本語は難しい言語か?

日本人は、自分たちの言語、日本語を難解な言語であると信じているようである。
確かに読み書きは難しいだろう。数多くの漢字は、日本人は子どもの時から読み書きの訓練を受ける。昔ほどでなくても、今でも訓練を受けているだろうから、一般の人々でもかなり精通している。
そして、漢字に特別の興味を持っている人々は、漢字検定という制度があるようで、それに挑戦して楽しんでいる人々がいるようである。

そして漢字の読み方を覚えなければならない。
送り仮名の付け方や筆順は、時代と共に変化する。筆者の時代の知識は、今なら間違いとされることもある。 

平仮名と片仮名の使い分けもある。

敬語、丁寧語、そしてダブル敬語

普段の生活で、正しい日本語を日常的に書いたり、話したりしていないために、特に敬語を普通に使っていないために、丁寧語、特に敬語の使い方は乱れ放題である。それは、丁寧語や敬語を使う訓練を受けていないとかという技術的な問題ではなく、むしろ人間関係が丁寧で無くなり、まして尊敬の念が失せてきているためだろうと思われる。

そのために、改まって丁寧に語らなければならないとか、まして敬語を使わなければならない状況になると、緊張の余りだろうか、日本語とはとても認定できないようなおかしげな[丁寧語」[敬語][ダブル敬語」が飛び出してくる。

*「おっしゃって下さった」・・・こんな日本語はない。正しくは、「おっしゃった」と言うか、「言ってくださった」である。

*「されていらっしゃる」・・・最近、こんなダブル敬語を「権威ある?」テレビ局、NHKの「クローズアップ現代」で聞いた時には、びっくり仰天した。アナウンサーは言語のプロであるはずである。それが、こんなダブル敬語を喋るんだ!
これは正しくは「していらっしゃる」である。

*「されて下さい」・・こうなると訳が分からないが、多分「して下さい」という意味だろう。

*「奨学金を受けても、将来返せることが出来るのか」・・・敬語ではないが、重複という意味では同じである。正しくは、「将来返せるのか」と言うか、「将来返すことが出来るのか」と言うか、どちらかである。これもまた、NHKのアナウンサーである。

言葉は生きている。言語は時代と共に変化する?

言葉は時代により、また地域により、生きているのでその変化を云々することはないと、強く主張する人々がいる。確かに、言葉は変化してきたのは事実であり、今も変化しつつある。しかし、言語の文法や意味を突き崩して良いということではないだろう。言葉は意志と心を伝える道具であり、それを正しく伝えなければ社会は破綻してしまうのである。

学校の教師、アナウンサーなど、正しい日本語を伝えるべき立場の人間が、教科書片手に教えている時だけ正しい日本語を使うのではなく、正しい日本語を自分のものにしていれば、普段の生活で自然に正しい日本語が使えるはずである。また必ずしも言語の専門家でなくても社会の指導者たちも、心して正しい日本語を使うようにするべきだろう。






 
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30年前に習った歴史は、相当間違っている? 
これまで学校で教えていた歴史は相当間違っていたと、テレビ番組で紹介していた。

鎌倉幕府の始まりは今まで教えられていた年代は間違い?

昔、鎌倉開幕は1192年だと教わった。
年代の記憶方法は、前にも書いたが同時に内容を伝えることが出来る語呂合わせで覚える。先人の知恵の素晴らしさを思う。
鎌倉開幕の年代:「鎌倉良い国・・いいくに1192・・武家政治」と覚えた。
1192年に、征夷大将軍に任命されて鎌倉に幕府が開かれ、武士による政治体制が敷かれたことを伝えている。すなわち、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命され、正式に鎌倉幕府が開かれたと教えられた。

テレビで紹介されていた語呂合わせは、筆者が覚えていたものとは異なっていた。
「良い国・・いいくに1192・・作ろう鎌倉幕府」なのだそうだ。
この語呂合わせは筆者が覚えた語呂合わせより情報量が少なく、武家政治の始まりであることを伝えていない。

ともあれ、この知識で大学受験をしたら、間違いと採点されるのだそうだ。
鎌倉幕府の始まりは、征夷大将軍任命の年ではなく、頼朝が守護・地頭の任命権を獲得した年、司法権と政治権力を手中に収めた1185年が実質的鎌倉幕府の開始と考えられているのだそうである。すなわち今は、「良い箱・・いいはご1185・・作ろう鎌倉幕府」と覚えるのだそうだ。

1192年か、はたまた1185年か?

どちらが正しいと考えるかは、歴史認識に拠るだろうと思う。
徳川幕府開幕は、1603年「広く治める・・ひろくおさ1603・・める江戸幕府」であり、それは徳川家康が征夷大将軍に任命された年である。政治権力が豊臣政権から徳川方に移ったのは1600年の関ヶ原の戦いを境とする。権力の移行は徐々に起こってはいたが、関ヶ原以降は徳川方が実質的な権力者になったのである。ところが、徳川幕府は1600年に始まったとする説はないと思われる。どこまでも、家康が征夷大将軍に任命された年を以て徳川幕府の始まりとする。
鎌倉幕府だって同じことではないか。正式に征夷大将軍に任命された時こそ開幕の時であるはずだと筆者は考えるが・・・・。

歴史は誰が書くか?

番組では、上野の西郷像は西郷隆盛ではなく、足利尊氏の絵は、尊氏ではない・・・等と紹介していた。

歴史書は、時代の影響を受けて書き換えられる。そして、歴史は常に勝者が書く。
豊臣が滅びて江戸時代になって、豊臣秀頼大事と仕えた石田三成は今以て余り評判が良くない。
それぞれの人々が、善人と描かれていようが、悪人と描かれていようか、本当はどうだったか分かる由もないだろう。
どこまでも勝者の歴史である。

東京裁判の本質を、少なくとも日本人は見直す必要があるだろう。
何故第二次大戦が起こったのか、何故日本は引っ掛かって真珠湾攻撃をさせられてしまったのか、何故ソ連は日本がすでにポツダム宣言を受諾して降参しているのに、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦し、勝者側に立ったのか・・・・

日本の歴史の裏の裏に潜んでいる諸々を、日本人自身の良識で見直して歴史をなるべく正しく書き換える必要がある。
日本が犯した過ちは過ちとして、正しいことは正しいとして卑屈にならず、自立・自律の国民として背筋を正す必要があるだろう。







 
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学校は教育機関である使命を忘れたのか? いじめによる自殺を看過・放置した学校 
中一生徒のいじめによる自殺・・・また!

昨年、2014年秋、中学一年の男子生徒がいじめを苦にして自殺した。
保護者からの再三の訴えにも拘わらず、学校は然るべき処置を怠り、堪えきれなかった子どもは遂に自殺した。
こういうことが起こった後の学校や教育委員会は、「いじめはなかったと理解しています」というような無責任発言を繰り返すことが多い。この時も、学校は自殺一年後の今まで事態を明らかにしなかった。だが、今、その実態が明らかにされつつある。

自殺に至る一連の経緯

全てマスコミで報じられているので、よく知られていることであろうが、一応一連の出来事を簡単にここに紹介する。

昨年4-5月から、この男子生徒に対するいじめが執拗に行われ、どんどんひどくなっていった。
仲間はずれ、見下すような言葉、消しゴムのカスをぶつける、「変態!」などと暴言をぶつけられ、いじめられ、泣いていた姿を教師も見ていた。不登校になり、保護者から相談を受けて加害者を指導し、学年集会を開いた。ところが、「ちくった」と、更なるいじめの原因になったという。

昨年秋、「転校したい」と親に訴え、その後自殺した。
自殺という事態を受けて、第三者委員会に調査を依頼、今年六月末に調査結果を答申、市教委が男子生徒の保護者に謝罪し、そして、今、8月21日に市教委が男子生徒の自殺を公表したのである。

いじめられて心をズタズタにされた子どもへの学校の対応

学校、あるいは教育委員会が、いじめを然るべく処理する能力を持っていないことは何度も問題になっているが、解決に向かっている気配は一向にない。教育委員会は自分たちの組織や権威・権力を守ろうとするのだろう。学校もまた、文科省や教育委員会など、巨大な組織の権力の下でうごめいて息も絶え絶えの状態にあるのだろう。そして個々の教師たちは、ピラミッド式の序列の下で汲々として生きていて、子どもたちの知的・情緒的・道徳性を高めるための教育をし、本気で子どもたちの心に寄り添おうとする教師が仮にいても潰されてしまうような学校なのだろう。

現場の教師たちが厳しい試練の中にあることは充分推察できる。ピラミッドの底辺で足搔いているとしても、このいじめの輪の中に教師が一枚も二枚も噛んでいるとしたら同情の余地はない。そして、教師が時にはいじめを先導したりさえする実例を筆者は知っている。教師がいじめの旗振りをすると、最もたちの悪いものになる。当然のこととして教師は基準であり、正義であるという建て前だからである。いじめは当然正義を行うという裏書きを得て、どんどんエスカレートするのである。

いじめ問題はどんどん陰湿になり、相手の体も心もボロボロに傷つけないと気が済まないという所へまで、人の心は落ちぶれてしまっている。誰か一人をスケープゴートにして、その犠牲者を守ろうとするとあっという間に自分がスケープゴートにされてしまうという。しかも、助けて上げようとした相手は見事に豹変して、率先していじめ派に寝返ってしまう。この集団心理はしばしば支配者に悪用されており、第二次大戦のナチスの恐怖政治、日本でも太平洋戦争に向かった時代、隣組制度はまさしくこの構図であり、自分の周囲に常にスパイが目を光らせている時代を人々は生きていた。自分や家族がナチスに、あるいは憲兵に虐待されないように敢えてスパイ活動をして、敢えて密告さえ行った人々の悲しさがあった。

いじめをした子どもたちの不健康な心

いじめをする子どもたちは、大人から悪者として扱われる。人々の単純な心は、白か黒かという、まるでヤクザのような対応しか出来ないようである。まず、子どものいじめは起こってはいないと宣言して、事実を隠そうとする。ばれると、いじめをする側の子どもは悪者、そして苛められる側の子どもは弱虫というレッテルを貼る。

本当は、いじめをする側の子どもは一方的な悪者ではなく、弱いからいじめをするという側面があるだろう。そして、苛められる側の子どもも必ずしも弱虫ではない。どちらも弱さや痛みを抱え、必死で生きている人間なのである。そして、多分いじめをする側の子どもたちの方が本当は遙かに弱く、心に堪え難い痛みと闇を抱えていることもしばしばだろう。

表面に出てくる犠牲者、助けを提供されなければならない子どもは、苛められる側の子どもであると世間は認識しているようである。もちろんそれは事実であり重要なことであるが、苛める側の子どもへも本質的な救いの手を差し伸べなければ、社会として立ち直れない。

陰湿で暴力的になり続けるいじめ

いじめは別に今に始まったことではない。昔から洋の東西を問わず、学校でも、様々な職業の場でも、老若男女、大人も、こどもも、人の集まる所どこででも大なり小なりいじめは常にあったし、今もある。ただ、昨今のいじめは、どんどん陰湿に悪辣になってきているのは、学校だけではない。その他の様々な幅広い領域においても同様な現象が起こっており、人と人との関係が傷つき、人を信じず、人を大切にする思いが薄れてきている。

世界中の人々が殺伐となって、人と人とが憎み合い痛めつけ合っている。そのような争いの絶えない社会が当たり前だと受けとめられるような社会に成り果てつつある。この70年間、日本は表向き戦争には巻き込まれていない。しかし、平和だと思い込まされているだけであり、人々の心は戦争状態のまま荒んでいる。

規範を失った社会

何が正しくて何が間違っているのか、人はどのように振る舞うべきか、どのように考えるべきか等々、人々が生きるべき規範が失われてしまった。日本人はそもそも穏やかな民族で争いを好まない性質を持っている。人であるから争いは絶えず起こってはいるが、それでも基本的に従順な民族である。個人であっても集団であっても良くも悪くも権力の前に跪き、従ってしまう。

日本には長い歴史の中で築かれてきた宗教的な規範がある。天皇を大祭司とする神道を頂点として、仏教は人生の最期を世話する葬式・埋葬を担い、儒教は生活規範を定める教えを担い、地蔵尊やその他八百万の偶像を拝む民間信仰などが、渾然一体として訳の分からない宗教の雰囲気が争いを避けて平和を保ってきた。・・・ちなみに、日本の道徳的教えは、聖書を起源とする者がかなり数多くある。
そして、これらが社会全体の安定を保ってきた。雑多な基準を雑多なままに、まぁええか、という日本的柔軟性が作動して、何でも受け容れるいわゆる「協調性」を発揮してきた。しかし今、不安定なバランスが総崩れしてしまった日本は、正直どうして良いか解らなくなっているのではないだろうか。どこへ戻っていけば良いのか、分からないのである。

縋るべき正しい基準: 聖書

アメリカやヨーロッパの社会は日本より先に荒れ狂い、深く傷ついてしまったように思う。そして、今もなお、世界中の人々の心は荒れ狂ったままで、正道に戻る気配は見えない。しかし、人々がふと目を覚ます時が来たら、戻るべき正しい原点に気が付くだろうと思われる。西洋社会はキリスト信仰に裏打ちされた土壌が長い歴史の中でしっかりと築かれており、道を逸れても一時的な道草であり、戻ってくる正しい基準を備えている社会である。雲散霧消することはない。

聖書の基準は、まず「愛」である。自分を創ってくださった全知全能の絶対なる創造主への愛、そして、相互の愛である。そして、日本人には理解出来ない領域である、絶対なる創造主の基準に立った「正義」である。その創造主の基準に立って、いかに生きるべきか、いかに振る舞うべきか、いかに考えるべきかなど、全てのことに関して正しい指針を人々に与えているのである。したがって、聖書の基準に従えば、幸わせになるという約束が聖書のあちこちに書かれているのである。

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう(詩篇32:8)

気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。(申命記12:28)

 








 
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言葉は生きている(5)対人関係の悩みが曖昧な表現を生む温床か? 日本人は誇りを失ったか?

 この頃、世の中が息苦しくなって、人間関係がうまくいかないという理由だけで、時には命のやりとりにまで及ぶほどの数々の犯罪まで生み出している。対人関係に悩む人々は生き悩み、人との関係を何とか無事にやり過ごすために、曖昧な表現をしてどうとでも解釈できるような物言いをする人々が増えている気がする。

 何かが「良い」時に、「良い」と言いきるどころか、「良いと思います」と言って、表現を和らげる。確かに何かを言い切らないで、「〜と思います」「〜ではないでしょうか?」と表現を和らげると自分の心を隠すことができるし、人間関係がうまくいくための一助にはなるだろう。それでさえ曖昧さが足りないということだろうか、さらに好い加減な表現にして、「良い『かな』、と思います」と非常に自信の無い、何を言っているのか分からない表現にしてしまう。こういう風に曖昧に言うことによって、柔らかな表現になる。相手が万が一にも「悪い」と思っていても、相手と対立しているのではないという印象を与えようと細心の注意を払うほどの念の入れようである。

 しかも、さらにさらに、それでさえ足りなくて、「良い『かな』と『は』思います」と、ダブルの注意を払う表現をする。「と『は』思います。」という表現は、実は、本当は非常に強調した表現でありながら、言外に、「とは思うものの、本当はそれを主張することは余り正しくないとか、心の片隅で思うけれども、行動に移す気は無いとか行動するのは正しくない、とか、まぁ、どうでも良いのじゃないの」というような、暗黙に否定的な意味を含んだ表現なのである。ところが、今やそのような使い方であるという認識が、消え始めているように思う。

 自分の語ること、書くことに自信が無くなってきたために、このような表現が流行して、そして挙げ句の果てに元々の意味が薄らいできているという現象が生じているのである。
 言葉は生き物であるからと言って、こうしてどんどん奇妙な言語が広がっていくことには抵抗を覚えずにはおられない。

 自分の民族の言語を大切にする人々としてフランス人は有名であるが、日本人はこのことに少し学ぶ必要があるのではないか。
日本人が言語を含めて、自分の文化に自信を失い、日本人であることに誇りを失ったのは今に始まったことではない。歴史を振り返ると誰でも思い浮かべるのは、250年に及ぶ鎖国と、武力的・高圧的な強制力によって西洋諸国と不平等条約を結ばされた開国、そして日本は「文明」の遅れを発見したということである。

 「文明」、すなわち「力」である。経済「力」、機械「力」、武「力」などに代表されるような、「闘争」を搔き立てる代物である。すなわち、ある意味で「人間としての尊厳とは一線を引かなければならない部分、すなわち文明、力」の遅れを発見し、そしてそれに引きずられて、日本人は文化にまで自信を失ってしまったのである。そして、世界の分捕り合戦に余りにも遅れて参画したために、その歪みは大きかった。喘ぎ続けた日本は、今なお延々とその後始末に苦しんでいる。目に見えることも、目に見えない文化の側面までも。

 日本に営々と築かれてきた美しい文化は、「力」とは対立するものであるために時代遅れのものとして捨て去られ、大切にしない風潮が助長されてきた。そして、その中に日本語も含まれている。確かに、効率だけを大切にする「文明」を操るためには、日本語は不便な言語である。そのために、日本語を粗雑に扱って「力」を身に付けようとしたのかも知れない。

 日本人が日本人としての真の誇り・自信を取り戻すのはいつの日のことだろうか?



 
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言葉は生きている(4):「言葉たち」は日本語として公認の言葉か?
言葉たち

朝日新聞社説で「党首討論 空費される言葉たち」という見出しに、正直びっくりした。

「忙中閑あり」で、頭がくたびれたときに
ブログにたわいない「お喋り」を繰り広げるので、本項も「言葉たち」という言葉遊びが主題である。が、主題に入る前に、この社説の本論に少しだけ触れておく。

憲法学者の意見を無視する首相

安全保障関連法案を「憲法違反である」と、
衆院憲法審査会に参考人として招かれた憲法学者3人が断言した。政府・自民党推薦の学者が政府の意向に真っ向から反対したのは見ものであった。昨今、日本がかつての帝国主義に成り下がる気配が窺われて多少心配していたが、しかし、民主主義や自由がまだ息も絶え絶えであっても日本に多少は残っているということだろう。

憲法学者に「憲法違反である」と断じられたあと、
国会で
首相が「答弁」に立った「はず」であった。当然、憲法をめぐり活発な議論が戦わされると期待した「はず」だが、議論は低調で、首相と民主党の岡田代表が互いに「私の質問に答えていない」と言い合ってお終いだった。朝日新聞社は、それを評して「党首討論 空費される言葉たち」と言ったのである。

もっとも、まともに討論しないのは、今回に限ったことではない。
国会であれ、県議会であれ、まともな討論をしているのを余り聞いたことが無いような気がするが、どうだろうか? そんなに熱心に聞いているわけではないので、余り大きなことは言えないが、下らない野次を飛ばす首相が権力を振るっている国である。安部さんは肩すかしが甚だ上手であるので首相として長生きしているに過ぎないという感じさえする。野党も一番肝心なことを突かないので政府の肩すかしを食らってしまっているということのように思える。

県議会で大泣きをして、世界中に日本国の大恥を曝した議員のいる国である。アイドル議員が国会をサボって遊びに行っても解雇されない国である。


この国はどちらへ彷徨い出るのだろうか? 大いに心配である。

文化的な美しい日本語

日本語は実に豊かで潤いのある、文化的で美しい言語である。しばしば、主語抜きの文章で立派に意味が通るような言語である。単数と複数を一々区別する必要のないことが多い言語である。時制(過去か現在か未来か)も然りで、一々きちっと言わなければならない文脈と、言わなくても間違いなく解る文脈とがある。

このように理屈を捏ねると、そんなこと言わなくても良いじゃないかと反発が起こりそうであるが、しかし、このような美しい文化的な言語を苦労せずに駆使して来たし、崩れつつあるとは言え今以て使っている民族なのである。


それが、外国語、特に英語が日本の国に入ってきて、日本語に混乱を生じている・・・混乱と言って悪ければ変化を生じている。その一つが、ここで取り上げている複数形の表示である。英語では、複数形を使う名詞と複数形の無い名詞とは厳密に区別されている。この短い文章の中に綴られている名詞を取り上げても、「言語」「主語]「文章」「民族」「外国語」「名詞」などは、それぞれ末尾に「s」を付けて複数形にするが、日本語はその必要はない。すなわち「言葉」という言葉も、日本語の本来としては複数形はない。

言葉は時代により、地域により確かに生きているので変化していくが、さりとてどうでも良いということではないだろう。「空費される言葉たち」と敢えて言わなければならなかったのだろうか? 昔なら、「空費される言葉」とあっさり言ったかも知れず、あるいは「空費される数々の言葉」と言ったのかも知れない。言葉の専門家であるはずの新聞記者が、それも社説の欄だから正しいのか、とチラッと思いはしたが、この頃は、新聞記者でも、アナウンサーでも、ひどい日本語を使うので、余り信用出来ない。

日本語の数の数え方

日本語は、「本棚に本が並べて置かれていた」という表現がまかり通る言語である。この本を一冊とか二冊だとは誰も思わないだろう。すなわち、英語だと"books"と言って、"a book"とは区別するが、日本語は区別しないでも、少なくとも数冊以上だと理解出来るのである。数を敢えて言わなければならないときには、それぞれに独特の美しい言葉を使って数を言い表す。本は一冊、二冊と数える。靴や箸は数を言わなくても、通常、一足、一膳と理解してしまう。英語では一対という表現になる。

家は一軒、二軒、アパートは一棟、二棟、車は一台、二台、電車の車両は一両、二両、人は一人、二人、・・・そして、動物の数え方は面白い。犬や猫は一匹、二匹、ところが馬や牛は一頭、二頭、鳥は一羽、二羽。魚を一尾、二尾と数えるのは魚屋だけか? そう言えば、兎は一羽、二羽と数えるそうだが何故そうなったかは、諸説(7
〜8説)あるが、キーワードは、鳥に似ているということらしい。
同じ言葉を重ねて複数にする例もある。いつからそうなったのかは知らないが、「人々」「国々」「山々」「家々」は抵抗なく使われているが、「川々」「星々」はどうだろうか? 「幾つもの川々が流れて」とか、「満天に無数の星々が輝いていた」ではなく、「幾つもの川が流れて・・・」「満天に無数の星が輝いていた」が普通の違和感の無い日本語であると筆者は思うのであるがどうだろうか。「口々にわめき立てて」とは言っても、「大勢が々をそばだてて」などとは言わない。

言葉たち、笑い声たち、海たち???

その内に、「〜〜たち」と言って、何でも複数形にするのではないだろうか? 時代と共に変化していく言語ではあっても、それは然るべき節度を持って変化して欲しいと思うのである。日本語の変化の度合いは、かなり凄まじく大きいという気がする。また、その地域差も、良くも悪くも非常に大きい。地域によっては、土地の人同士が話している言葉は、殆どまるきり解らないことがある。

筆者は数多くの言語を知っているわけでは無いので比較できないが、あの大きなアメリカ大陸で東と西と南で、多少異なっているのは事実であるが、解らないほどではない。また、時代を言うと、確かにシェークスピア(1564〜1616)まで時代を遡ると難しいが、それでもぎりぎり理解の範疇に入っているように思った。ところが、日本語は、江戸時代に差し掛かろうかという時代の文学は、とても読めたものではない。それどころか、明治時代の文学でも結構難しい。

日本人は、言語の変化に抵抗しない民族なのだろうか? 



 












 
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