ユダヤ人の亡命を助けた勇気ある音楽家・近衛秀麿

音楽に多少とも精通している人々は、近衛秀麿という名前を知っているだろうし、非常に優秀な音楽家・指揮者であったこと、日本における西洋音楽のパイオニアとして重要な役割を果たしたことを知っているだろう。また、その名前から天皇に繋がる家系であることも多分、認識している人が多いだろう。

 

だが、彼の個人的なことを知っている人の数はそれよりは少ないだろうし、ましてユダヤ人の亡命を手助けしたためにゲシュタポに逮捕され、拷問を堪え忍んだことなどを知っている人はほとんど居ないだろう。と言うよりは、実はその事実が明らかになったのは、つい2〜3年前だそうである。

 

近衛秀麿の兄は日独伊三国同盟を結んだときの首相、近衛文麿である。この近衛文麿は、日本が敗戦した直後、逮捕される前に服毒自殺をして、東京裁判にかけられる不名誉から逃れた人である。ともあれ、この近衛文麿の弟であるので、ドイツでユダヤ人の亡命に手を差し伸べていたことが分かったときにも、一日拘留されただけで解放されたようである。また、戦後は、そのためにスパイであったのではないかと、疑いの目で眺められた。

 

リトアニアの領事であって、ぎりぎりまでユダヤ人に日本の通過ビザを署名し続けて、6000人に及ぶユダヤ人を助けた杉原千畝のことを知っている人は大勢居る。しかし、近衛秀麿のような民間人のささやかでも、民間人であるが故に命がけで理不尽な迫害を受けていたユダヤ人を助けた人がいたことは余り知られていない。

 

彼のこの勇気ある行動をNHKが伝えていたが、どこまでも美しい勇気ある行動の部分だけをまとめていた。それで、近衛文麿の知られていないプロファイルを調べてみたところ、どうも色々と美しくない人間像が出てきてしまった。

秀麿は結婚を2回しており、それ以外に何人もの女性と幾人もの子をなしており、派手な女性遍歴をしたようである。そして、戦後、アメリカ軍に抑留された時の尋問で子供の数を聞かれ、暫く沈黙した後に「子供が何人居るか数えているところだ」と言い放って取締官は唖然としたそうである。

 

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いじめ→焼身自殺→訴訟→敗訴→高裁が真実を認めるまで9年:裁判官を盲目・暗愚にする社会
職場のいじめで焼身自殺

9年前、一人の市バスの運転手が焼身自殺した。37歳。
初めは何故自殺したのか分からなかったと両親は言う。ところがひょんなことから職場の上司による陰湿ないじめ、いわゆるパワハラが自殺に追いやったということが分かった。

乗務指導ということで、乗客としてバスに乗り込み調べたのは良いが、電話で「葬式の司会のようなアナウンスをやめろ」と、その指導者はオフィスに報告した。指導しているようで、実は嫌がらせ、いじめの報告である。
次いで、一日のうちに別々の3人の上司がバスに乗客として乗り込んで調査した。乗客としてと言っても、もちろん運転手は職場の上司が指導員として乗り込んできたことを知っており、陰湿ないじめの乗務指導である。

続けて、バスの中で転倒したという年をとった女性による訴えが、事件発生後一週間も経ってから事業所にメールがあった。市バスの事業所は、誰かを特定して、言うなら「犯人」にしなければならないからだろうか、いじめ対象にしていた運転手がその事故を起こした運転手として無理矢理に責任を押しつけ、警察に出頭させた。

いじめ抜けば、退職してくれるのではないかと期待したのか?だが、退職では済まなかった。この運転手はいじめに耐えきれず、焼身自殺した。

両親による労働災害の補償の訴え

学校のいじめでも、会社のいじめでも、問題が起こると「いじめはなかった」と、知らぬ存ぜぬ、とことん隠蔽するのはどこでも同じ。本件でも労働災害は決して認められず、訴えても訴えても、はねつけられ続けた。

当該自治体は、名古屋市である。両親だけでは出来ることは限られているが、弁護士がついた。支援者も大勢得られた。そんな中で、いじめの実態が次々と明らかになってきた。しかし、市側がいじめを認めることはなかった。何が何でも、市は責任を回避したかったのだろう。誰か犠牲の羊が見つかりさえすればそれで良かったのだろうか?

そもそも、市バス事業所でいじめがなければ、何も起こらなかったはずであった。上司の悪質なパワハラが仮にあっても、弱い者を守る雰囲気さえ職場にあれば、何も起こらなかったはずである。ちょっとした転倒事故があっても、そのときの運転手を間違いなく探し出すのはそんなに困難なことではなかっただろう。そうすれば、今回のことは起こらなかっただろう。仮に、その運転手を見つけ出すことが出来なかったとしても、記録による明らかなアリバイ(下に詳細に記す)のある人物を犠牲者に仕立て上げるような犯罪行為をしなければ、今回の事件は起こるはずは無かったのである。

裁判所へ訴え

「葬式の司会」という言葉による暴力もけしからんことであるが、言葉の暴力はともかくとして、事故の時の運転手の特定は、実はそんなに難しいことではなかった。そして、事故が起こった日時、同じバスに乗っていて転倒したという乗客を助けた乗客の証言、バスの運行記録、乗客の動向、運転手の勤務記録で、バスは簡単に割り出せた。・・・そして、運転手も割り出せたはずだが、その運転手の名前は公表されなかったが、少なくともいじめられて自殺した運転手ではなかったことは明らかであった。

地裁の裁判官は気でも狂ったか? この明々白々の事実を認めなかった。先に書いたように「葬式の司会」という言葉をパワハラと認定するかどうか、また、上に記したような嫌がらせ的な過剰の「勤務指導」のあり方をパワハラと認定するかどうかは、ともかくも置くとしよう。
運転手が誰であったかという、 疑問を挟む余地のない記録を認めない裁判官には開いた口がふさがらない。

‥湘櫃靴疹莎劼判けた乗客は、同じ病院に通っていた患者で、いつも午後の決まった時間に通院するためにバスに乗っていた。▲丱垢里修瞭の運行記録と乗務した運転手の記録によると、犠牲者になった運転手は当日午前の勤務で、事故の時刻には乗務していなかった。その日の乗客の乗降の記録は、バス会社側が主張する当該バス(この運転手が勤務)の乗客数は、事故が起こったとする時間と場所では、男女二人が降りて乗客はいったんゼロになり、その停留所で入れ替わりに新たな二人の男性が乗り込んだ。
 
この事故のバスを運転していた運転手は別の人物であることは、あまりにも明らかである。そして、弁護士は当然この点を指摘したのである。いくら何でも、それが分からなかったほど裁判官は馬鹿ではないだろう。とすると「故意に見逃した」か、あるいは「名古屋市から圧力がかかったか?」 巡り巡って裁判所の上級職に、そして担当判事に圧力がかかったか? 悪意があったのではないか、という気がする。裁判は「正義」の旗をかざして、ここまで悪いことをする。

しかし、この点を曖昧模糊とした上に、職場のいじめを認定せず、自殺したのは当人が弱すぎたと断定したのである。

判決は「正義」だと思われたから支援者の数が減って、当事者も含めてたった9名になってしまった。そして、くたびれ果てた母親は、この訴えから一歩退いた。裁判でかの運転手に対するひどいパワハラがあったことを証言した同僚は、その人物の名前を明かすことを拒んだ。「後でいじめられるかも知れないから」とはっきりそう言った。今、職場でいじめられていないだろうかと、心配である。

高裁に控訴、そして真実が認められた

長い闘いであった。
こんなにも明々白々な事件の真相が裁判で公に明らかになるまで、9年の歳月を要したなどという日本の社会の闇を知らされた気がした。自分の都合の悪いことを隠蔽し、都合の良いように詐称してまで、市のメンツと組織の上部の人間を守ろうとする陰湿な体質が日本の官僚組織なのだろう。

9年のつらい歳月だっただろう。
そして、やっと、裁判所が真実を認めた! 
しかしながら、どんなことをしても、両親の苦しみの貴重な時間は決して戻ってはこない。ましてや、苦しみ回ったあげくに焼身自殺した彼のいのちはもう戻ってこない。

毎日の新聞やテレビニュースを賑わす様々なつらい事件は小さくしか取り扱われないが、人のいのちが粗末に扱われる今の日本に救いが早く訪れますようにと祈らずにはおられない。

































 
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「らいは不治にあらず」:ハンセン病隔離に抗った医師「小笠原登」
2001年5月11日 ハンセン病患者の隔離政策の過ちを認めた日

国が過ちを曲がりなりにも認めるために、100年を必要とした!
人間は自分の過ちを認めないものである。ついでのことに・・・。
     *****
今年、アメリカ大統領が初めて広島にやってくる! 原爆を投下してから、実に71年。やっとやって来るが、原爆開発・投下を間違っていたと認めたわけではない。そしてアメリカ国民も、あれは必要であったと結論している。間違っていたと認めるまでに、これから何年かかるのだろうか?
     *****

熊本地裁は、ハンセン病元患者が起こした訴訟で、国の隔離政策の過ちを認め、賠償を命じる判決をやっと下した。この問題の100年近い歩み、当事者の苦しみは知られていない。権力者たちが実情を隠し続けてきたからであろう。やっと少しだけ、その内情がマスコミを通じて明らかになったという気がする。

判決を受けて、元患者の感想が少しマスコミの前で披露された。
「明日から人間として堂々と歩いて行ける。ようやく人間になりました。」
「8歳の時に、4畳半ほどの部屋に鍵を閉められ、閉じ込められた悪夢。あの狭い空間を思い出し・・」

人間であることさえ否定されて、苦しみ回ってきた人々。今やっとその苦しみから、形だけでも解き放たれたのである。苦しみの中で人生を終えざるを得なかった大勢の元患者の苦しみ、悲しみ、恨み辛みは、分かるよしもない。

特効薬が開発され、治療法が確立した戦後も、隔離政策は継続された。そして、90年近い年月の後、平成8年(1996年)癩予防法がやっと廃止された。一般社会で、普通の人として生きるすべを奪われて、「どうぞご自由に」と言われて、一体どう出来ると言うのだろう? 間違いを認めてしっかり謝罪するでもなく、それに対する賠償もしないで、無責任極まる決定であった。

今、やっと、隔離政策の過ちを認め、国家賠償を考えるための判決が下された。国は控訴を断念したとのことである。当たり前だろう。

小笠原登あっての国賠訴訟勝訴判決を勝ち取った

無知故に、社会から隔離したことはあながち責めることはできないかも知れないが、しかし、その隔離の方法は人権を無視したとんでもないやり方であったが・・・。

そして、ハンセン病は滅多にうつることが無く、特定の体質の人しか感染せず、また治療可能な病気であるという真実が判明して、隔離の必要性が全くなくなっても、一向に改めようとしなかった日本の権力者たちの横暴は目に余るものである。そして、政治の世界の権力者たちを支えるいわゆる権力者側の「専門家」の医者たちと、一般社会。これらが一つになって「力を合わせて」弱者を虐待するのは、日本もそして世界中の人間の残虐性である。

小笠原登は、戦前から医学的に見て隔離は不要と唱えており、強制隔離の間違いを一人で主張し、ほとんど誰も支持しない状態で闘ってきた孤高の人であった。この人がいなければ、日本の国の頑迷の故に続けられた強制隔離政策が終息することはなかっただろう。

ことはハンセン病の問題だけでないのは明らかであり、人間の心の奥底に潜む罪は、社会の様々な問題に姿を変えて全世界を凌駕しているのである。
ハンセン病患者から母と慕われた井深八重について、尾崎富雄先生が講演しておられるので、案内をしている。

この強制隔離の歴史など、さらに追跡したいと思う。


















 
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隔離政策によりハンセン病患者を虐待し続けた国家権力:一人で闘った医師、小笠原登
ハンセン病患者のために生涯を捧げた医師の日記が愛知県あま市・円周寺で発見されて、国家権力と苦しみ回って闘った小笠原登という一人の医師の闘いの内面の記録が明らかになった。

ハンセン病に対する日本国の信じられない虐待の記録は、知られているようであまり知られていないのかも知れない。
今から15年前、2001年5月11日に、ハンセン病元患者が起こした訴訟で、熊本地裁において国の隔離政策の過ちを認め、賠償を命じる判決が下りた。

明治40年(1908年):ハンセン病患者の強制隔離が始まった。強制隔離するために、全国に療養所が建てられ、ハンセン病と判明したら、療養所送りになった。日本では時代の流れに逆行する法律が次々と制定され、国の隔離政策はエスカレートし続けた。

昭和5年(1930年):ハンセン病は国力を損なう病であると決めつけ、癩根絶策を策定した。「癩を根絶し得ないようでは真の文明国に達したとは言えない」と、癩予防法を制定し、生涯にわたって隔離する絶対隔離政策が行われた。

昭和6年(1931年):小笠原登は「癩に関する三つの迷信」という論文を発表。ハンセン病の迷信「遺伝する病気」ではない、「強烈な伝染病」ではない、「不治の病」でもないと論じて、国の隔離政策を批判。

昭和13年(1938年):京都大学医学部付属病院、皮膚科特別研究室として、独立の医療施設が設立された。ハンセン病専門の外来・入院棟を備えており、小笠原登が初代所長に就任。以後、生涯、その時その時に可能な方法で、ハンセン病患者の治療に当たり、ハンセン病は不治の病でないこと、隔離政策の誤りを主張し続けた。

昭和23年(1948年):敗戦によって人権を尊重する憲法が制定され、隔離政策の見直し気運が生まれた。また、癩菌に有効な特効薬プロミンが導入され、癩菌の増殖を阻止する劇的な効果を発揮した。しかし、当時学界を牛耳っていた医師たちがこの特効薬の効果に疑義を呈し、どこまでも国家権力を振り回して、ハンセン病元患者たちを延々と束縛し続けることになった。

昭和26年(1951年):全国国立癩療養所患者協議会結成。 
ハンセン病は治る病気になったとし、強制隔離の廃止、軽快者の退所を法律に明記するよう国に直接訴える。

昭和28年(1953年):上記に待ったをかけたのが光田健輔という大御所。この人物は、多くの栄誉を手にし、文化勲章まで与えられたが、彼の業績はマイナス面の方が多いようである。後に詳細に記載する。
「軽率に解放を叫ぶことはせっかくここまで浄化せられてきた国内を再び癩菌で汚染させるに等しい暴挙と言わねばならぬ。」と主張し、改正「らい予防法」が成立。全患協の主張は受け入れられず、強制隔離は継続、外出は制限され、違反者への罰則も加わっていた。 

平成8年(1996年): 癩予防法廃止。90年近い隔離政策に終止符。戦後、50年もの歳月、日本には良心も存在せず、知識も知性も無かったのだろうか?小笠原が三つの迷信で隔離政策を批判してから70年、国家賠償請求法

政府の意向に沿わない番組を作ると「偏向している」という非難を受ける日本国である。国家権力が、長期間行い続けた隔離政策の間違いを認めたので、国家権力に反逆することをしない従順な組織であるNHKが、特集することに躊躇しなかったのだろう。

特集してもかまわないという国家のお墨付きをもらったときには、NHKは人力と金力と権力をふんだんに使って優れた作品を作ることが可能である。
この番組を参考にして、この問題をもう少し書き続けるつもりである。





 
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英ノーベル賞科学者の女性差別的発言・・・心にあることを話す「女性が研究室にいると困る」
ノーベル賞学者の失言?本音?

科学の世界に女性を増やそうという趣旨で開かれた科学ジャーナリスト世界会議で、ノーベル生理学・医学賞を受賞したティム・ハント氏(72歳、写真、Wikipedia)が、女性への差別発言をしたことにより、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の名誉教授職を辞任した。
ノーベル賞を受賞(2001年)したのは、細胞分裂周期を制御している制御因子を発見したことによる。

彼は「女性が研究室にいると困る」と発言し、その理由は、女性が研究室にいると「周囲の男性が恋をする・女性が恋をする・女性を批判すると泣かれる」ということだという。今の世の中は情報、特にミーハー的、ゴシップ情報はあっという間に世界中を駆け巡る。この件もツィッターを通じて世界中に拡がり、当然のことながら批判が巻き起こった。彼は「軽い気持ちだった」等といって謝罪して釈明したそうで、そのためにさらに批判を浴びることになった。

彼は一体何を言いたかったのだろうか? 健康な男女が同じ研究室、同じ職場で仕事をしていれば、恋が芽生えても不思議はないし、それこそが健康な社会である。それを否定的な見方をしているということが異常である。「女性は(職場で)泣く」というコメントは、一般論として間違っていないだろう。そして、「泣く」という武器は、他のどんな武器よりも強く役に立つ。だから多くの女性は、軽蔑されているとは知らないで、勝つためにこの武器を使うのだろうか? 実際、この武器を振りかざされると立ち向かう術は無く、泣かれないようにするために、問題があっても大目に見るし、時には完全に目をつむってしまう。当然、「泣く」人には重要な仕事は任せられないことになってしまう。この学者がどういう体験を持っているかは知らないが、このことに強い批判を持っているのであれば、「軽い気持ちだった」などと釈明するべきではない。「泣く」という武器に対する批判を堂々と繰り広げるべきであった。
もっとも、この頃は女性も自立してきて、泣く人は少なくなっているという気がするし、逆に男性が簡単に泣くようになっている。女性であっても男性であっても、「泣く」という武器は強烈である。

女性解放運動の建て前と心の中に渦巻く本音

変なことを言った後で、「軽い気持ちだった」「そんなつもりは無かった」「心にも無いことを」「思わず口が滑った」等々と申し訳を聞くことがあるが、こういう「心にもない」と言い訳をしなければならないような発言こそが、本音を吐露していると思われる。準備不足で発言するときにこそ、普段、隠している本音が外にほとばしり出てしまうということだろう。

世の中は、女性蔑視・差別は今以て活き活きと活躍しており、「女性を自由にする、女性差別を廃止する、女性に活躍の場を与える」とかという「建て前・勇ましいかけ声」のもとに人々はこういう「女性解放運動」を展開している。しかし、当事者の本心は別のところにあることが多く、心の中のドロドロした本心は、ふっと気を抜いたときに出口を見つけ出して、この学者同様に世の中にボロを曝してしまう。

マタイの福音書12章34〜36節
まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。


豊かなために差別に鈍感になっている女性たち

かつて世界は、日本は貧しかった。貧しいために弱いものたちは虐げられていた。苦しめられると、虐げられていることに気が付く。かつて女性たちは解放のために、自立のために戦った。25年も経てば、世界の、日本の女性は余程社会で自立して、活き活きと生きるようになるだろうと期待した。確かに、25年前に比べれば、家に籠もらず社会で働く女性の割合は増大したし、また、重要な地位・立場に立って重要な任務を果たしている女性の割合も増えた。しかし、英国人ではあるがこの学者の例は特別ではなく、社会の底辺にじっくりと染み付いた心を映し出しているのである。

女性が虐げられて差別を受けている社会では、男性もまた自立できないし不幸である。そのことが、この頃少しずつ理解され始めている。家庭で男性(夫、父親)が孤立している例が少なくないという。そして、定年を迎えた後、働く場を奪われた男性は、何をして良いか解らないという状態に陥り、不思議な生命を生きていることも決して少なくない。家族のために働いていると錯覚し、ただの働き蜂として自己満足の中で定年まで勤めた後に、自分の居場所が世界中どこにもないことに気が付く。自分の命が尽きるまで妻が生きていたらいたで、邪魔者扱いをされて孤独をかこち、かといって、妻が先に死んでしまうと自立していない男性は、命の火が燃え尽きてしまう人も多い。

愛されてこの世に命を頂いた私たち

この末の世、人間は、男性も女性も、自分を創って下さった絶対なる全能の神を離れて我が儘気儘に生きるようになったので、糸の切れた凧のようにフラフラとあてどなく彷徨っている。空しい命を持てあまし、収めようのない空しさや苛立ちの矛先を周囲の弱いものに向ける。人間は自分の命の由来を悟り、生きていることの本当の意義・目的を知り、絶対なる方の愛を知り委ねきってこそ、喜んで生きることが出来るのである。自分の空しさ・辛さ・やりきれなさを周囲の弱いものにぶつけるようなことは影を潜めるであろう。科学の世界で功成り名遂げた学者が、あのような情けないドロドロの思いを内に秘めて、息も絶え絶えに生きて行くようなことは起こらないだろう。











 
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