俺の遺産の一部を世界の子供たちに贈っても良いか? ユニセフの宣伝!

俺の遺産の一部を世界の子供たちに贈っても良いか?

 

ユニセフの広告の台詞に驚いた!

そして、この父親の台詞を子供が非常に肯定的に、感激したかの如き感想がその後に続いて語られている。

 

食べ物がなかった時代、不味い脱脂粉乳でも食べるものがあるだけでも幸せだったという父親の思い出が語られていて、食べ物のない世界の子供に遺産を贈りたいということである。

 

遺産を誰に、どのように分けるかは、法律の許す範囲内に於いて、死ぬ者の自由であるだろう。だから、自分がこの世にいなくなる時点で、「善行」をして好い気分になろうというのは自己中心で、高く評価される筋合いのものではないと思うのだが、不思議に世の中はこういう行為を歓迎する。

 

社会の弱者、政治紛争の犠牲になっている子供たちへの思いやりが本当にあるのなら、遺産ではなく現在の自分が享受している様々な恩恵をこそ分かち与えるべきだろう。自分も大きな犠牲を払ってこそ、意味がある行為である。余ったから与える、自分が死んでいくのでもう要らないから分かち与えるという不遜な態度には、申し訳ないが眉をしかめたくなる。

 

このような人物たちの「寄付」は、数字の上では経済的潤いをもたらしてユニセフの働きに貢献しているのだろう。でも、それが日本人の思いやりの心であるとは思いたくない。

 

自分が下車する時、次に座る人を決めようとした人!

 

ユニセフのこの広告で、列車内で体験した一コマを思い出した。

 

筆者がもう少しだけ若くて、1時間くらいなら立っていても我慢の範囲であった頃、京都から東京まで出かけた時のことである。新幹線がかなり混んでいて、当然指定席は手に入らず、自由席で筆者は立っていた。大抵は、名古屋で席が空くので一時間我慢すれば良かったのだが、その時の混み具合はそれを期待できるような状態ではなかったので、東京まで仕方がないと諦めていた。

 

さて、名古屋到着のお知らせ。

降りる準備をする人々がもぞもぞと動き始める見馴れた風景である。そして、予想通り、通路に立っていた人々が席を確保できるほど下車する人はいない気配であった。

 

と、その時、遠くから筆者の袖を引っ張る人がいた! 振り返ると、「自分は降りるので、どうぞ」と言う。勧められた座席と筆者との間には立っている人が二人ほどいた。その人々を押しのけて「善意に溢れている」という笑顔を作って、「私の席」を譲って上げるというわけである。

 

もちろん、その席は、もはやその人が坐る権利を持っている「私の席」ではない。強いて言うなら、一番側に立っていた人が次にその席に座る権利を獲得したのである。したがって、自分が権利を持っていない他人のものである席を「盗んで」、他の人に譲り渡そうとする行為である。

 

筆者は、「そのような行為はいけないことだ」と一言、注意したい思いはあったのだが、それはしなかった。ただ、その座席から遠ざかって拒絶の意思表示をするに留まった。

 

ちなみに、この広告はいつからしていたのだろう?と、ふっと思った。随分以前からしていたのかも知れないな。日本人の思いやりの心をこのように安っぽい理解しか出来ないユニセフなのか、このような行為が弱者への思いやりだという誤解が日本には実際広がっているのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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人気テレビ番組「相棒」・大人のいじめ・醜い大人の心の内を根こそぎにすると・・・

高視聴率を稼ぎ続けるテレビ番組「相棒」

 

長期間に亘り高視聴率を稼ぎ続けているテレビ番組「相棒」の人気の原因は様々だろうが、筆者は静かなファンである。「静かな」というのは、劇場版がでても映画館に赴くことはなく、テレビで公開されても一生懸命見るわけではなく「ながら族的」に横目で見ていたり、他のことをしながら聞くともなく聞いていたりという程度であるということである。それでも、再放送が何度もされるので相当のことは知っているというか、記憶の底にうっすらと留まっている。

 

そして、面白いと思っている。

どこまで警察・警視庁の実態を映し出しているか、どこまでありえない状況かは分からないが、とことん極端な舞台設計である。

 

舞台設計の大枠

 

超が付く頭脳明晰な杉下右京という警部が組織の支配を嫌い、彼の定義による「真実・事実」だけを絶対視して、事件解決にだけ力を注ぐ。ただ余りにも優秀であることが嫌われ、上司の間違いを見逃すことが出来ず自分の意見を押し通す一匹狼である。一般社会でも流れをかき乱す人間は、それがどれだけ正しくても「いじめられる」。いや、正しければ正しいほど「いじめられる」。右京は窓際に追いやられ独りぼっちであるが、そこへ送り込まれてくるのは「首切りの代わり」というあぶれ者である。それが、「相棒」である。

 

警察組織のことはよく知らないが、警視庁というのは東京都の警察本部で、その頂点にのさばっている警視庁の刑事部長の保身は尋常のレベルではない。ただ「威張りたい」だけの見苦しさ極まる馬鹿者である。そして、その側で揉み手をして「へいこらする」別の見苦しい馬鹿者も、言うなら別の、陰に存在する情けない相棒である・・・。この二人は、現在社会問題になっている子供たちのいじめなど顔負けのいじめをしでかして、優秀な杉下警部をことあるごとに「合法的に」いじめを実行する。

 

警察の部署で強盗や殺人という凶悪犯罪を取り扱う現場の刑事は、一番威勢が良く、一番威張っている部署のようである。その部署の刑事3人組、特に嫌みたっぷりの一人がまた面白い。先を見通すことが出来る優秀な右京を当てにしては寄り掛かっていながら、様々な嫌みを言ったり邪魔立てをして、手柄を丸ごと貰ってしまう。しかし、右京は手柄を横取りされても、そうとさえ認識せず、どこ吹く風である。

 

そして、鑑識課の一人が右京を陰で支えている。

 

何が面白い?

 

面白いと感じる点は様々だろう。

 

右京がその優れた頭脳を駆使して、難解な事件を暴力を使わず論理的に次々と解決する点が小気味よい。右京には好意を持ちながら、組織の人間なのでおおやけに支持できない鑑識課員のとぼけも面白い。島流しとして送られてくる人物が、次々と面白く全く良い相棒である。


組織に働く権力層と、権力の下で喘ぎながら組織の階段を上に登りたい野心を抱く下の層、「出世」はしたいが、しかし見苦しく揉み手をして唯々諾々と従う無様な真似はしたくない、多少は骨はあるものの、しかし、右京のように窓際族にはなりたくない・・・そういう人間の心の葛藤を、真面目でもなく、コメディでもなく描いている。

 

組織からはじき飛ばされ、いじめ抜かれている一人の警部が、そのいじめを肩すかしして、苦痛と感じているかいないのかさえ解らない。そもそも、出世には興味が無いらしい。しかし、威張り散らしている上層部の鼻を明かして事件を解決してしまうが、彼は、上層部の鼻を明かすつもりすらない。そういう所が人気の原点かも知れない。

 

相棒と言えば、この間、この相棒の番組に出演していた女優が麻薬関連で逮捕された。番組の中では、右京の前の妻という設定で、小さな、一膳飯屋と言うには格好良すぎる店の女将さん?である。奇妙な元夫婦で、離婚していながら、右京はそこで夕食を摂る。この元妻は、奇妙な論理を振りかざして右京を非難しまくり、何もかも右京が悪いという風情であるが、右京はどこ吹く風である。

このドラマの元妻が逮捕されたのである。

 

俳優たちの演技が面白いのか? ストーリーが面白いのか?

筆者は、神戸尊(作中人物、俳優の名前は知らない)という相棒の、人を食ったようなクールな役柄を面白いと思った。

ちなみに、新シリーズが始まっているようで、一回目か、二回目かを見たが、どうも面白くなかった。そろそろ、ネタ切れかも知れないな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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暑い秋! キンモクセイが今花開いた! 秋の花や虫の季節感は、人間の認識とは違うらしい

10月20日、夜遅く、犬の散歩で歩いていると、ほのかなキンモクセイの香りが漂ってきた!

え?! 10月下旬になってキンモクセイ? 見回したがどこにもキンモクセイは、暗いせいだろうか見えない。

誰かキンモクセイの香りの香水でも付けている人が歩いたのか? しかし、人工のキンモクセイの押しつけがましい香りとは異なって、さわやかな天然の香りである。

 

翌朝、我が家のキンモクセイが一斉に花開いて、かぐわしい香りを放った。

例年は、つぼみが出来て、2〜3割花が開いて、そしてやがて半分くらい、8割になりと一日ごとに進行して満開になる。花の開き具合によって香りも順次強くなり、8割も開くとかなり離れていてもスッと通るだけで、かぐわしい香りが漂ってくる。

今年は、前触れもなくいきなり満開であった。

 

例年は、キンモクセイが散った後で、植木の剪定をして貰うのだが、今年は植木の剪定が済んでからキンモクセイが花開いた。

 

いつまでも暑い夏に、キンモクセイも驚いたのだろうか? いきなり満開であった。

 

 

 

 

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セミの長い一生:長い年月を地中に過ごし、成虫になったら1ヶ月

セミの変態と最後の羽化

 

庭のあちこちにポコポコと穴があき、セミが長い地中生活を終えて地上に出てきて、ささやかに夏の訪れを告げる。地中から出てきて、旅立ちの最後の段階、羽化の場を木の幹や木の葉に定めて静かに待つ。夜遅く、あるいは朝、羽化が完了して飛び立った後の抜け殻がいっぱい幹に取り付き、木の葉にぶら下がっている。写真は木の幹に逆さまにしがみついている抜け殻であるが、この接着力は相当強く、ちょっと払ったくらいではびくともしない。

 

驚いたことに、土から離れている石の門柱を羽化の場に定める個体がいるということで、それも風変わりな個体や、道に迷った個体ということではないらしく、かなり数が多い。地中から出てきて、地面を這ってわざわざ石の門柱まで辿り着いて、そして、今度は石の門柱を這って上っていくのは、かなり大変な労働である。しかし、相当多くの個体が敢えてこの行動を取るのはどういうことだろう?

 

筆者が今の家に居を定めてから四半世紀、その頃、セミが羽化する時期に庭の穴は無数にあいた。そして、セミの声は「セミ時雨」などという生やさしい言葉で表現できるようなものではなかった。耳をつんざく勢いで「これはたまらん」と、思ったくらいであった。

 

そして、8月中旬を過ぎると、柔らかな「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と秋の訪れの近いことを、さわやかに伝えてくれる。これが夏の風物詩の一つであった。

 

ところが、自然破壊の進んでいることの象徴のように、年を経るに従って穴の数が減ってきて、セミの鳴き声も耳をつんざくほどの勢いが年々なくなってきている(写真はアブラゼミ)。また、ツクツクボウシが我が家の樹に来なくなり、家の周辺で聴かなくなって数年になるが、都市部からいなくなったのか、筆者の住まいの近辺でだけいなくなったのかわからない。

 

創造主の叡智がきらめく生物

 

このような小さな生き物にも創造主が祝福を与えて、それぞれに特別な姿と形、そして絶妙な機能を与えて創造されたことを紹介し考察する原稿を数日前に書き終えた。マルコーシュ出版発行の「ハーザー」誌に、「創造と福音」という全体の構想の下に、3年近く続けて書かせて頂いている。天地万物の創造に始まり、2016年9月号にはセミのような小さな動物の精巧な造りを通常の教科書の視点ではなく、偉大な企画の下に創造された生き物として紹介している。

 

セミはセミとして、蝶は蝶として、トンボはトンボとして、それぞれが特別に企画して創造されたこと、いのちのすばらしさを伝えている。ハーザー誌は、1年遅れくらいで筆者のウェブサイトに公開しているので、それを参照して頂くと万物の創造に関して詳細に紹介している。

 

羽化の成功と失敗

 

昨夜、犬を散歩に連れて行こうとしたところ、例によって門柱に止って羽化が始まっている個体を発見した。すでに白い羽が出始めていて、じっと見つめていると動いている。少しずつ、少しずつ羽が広がって行っている。その速度は意外に速い。ふと、そばのキンモクセイの木を見ると、その葉でも別のいのちが羽化の終了間近の個体がいた。すでに羽は茶色に色が変化している。それをじっと見つめていたが、こちらの個体は、どうも動きがなく、いのちの息吹が感じられない。

 

それをそのままおいて、取り敢えず犬を散歩に連れ出した。

 

帰ってきて二匹のセミがどうなっているのか見てみると、僅かの時間に白い羽はさらに長くなり、そして、まだ少しずつ伸びて行っている。それからまだ暫く見ていると、羽は九分通り伸びたのかなと思われるまで伸びてきたが、それでも羽の色は白いままであったので、成虫として飛び立つにはまだ時間が必要だと思われた。写真は羽化が完了して、抜け殻を残して飛び立つ寸前のセミである。

 

一方、完全に羽が出てしまい、色も成体の茶色に変わっていた方の個体は、まだ何の変化も見られない。暗い中ではあるが、じっと見続けていても一向に動いている気配がない。どうも、羽化に失敗してしまったのかな、という気配であった。

 

セミの羽化の過程など滅多に見ることが出来ないので、それから30分ほども観察し続けたが、この個体には変化が見られなかった。

 

翌朝、つまり今朝、もう一度この2匹の行く末を確認した。

白い羽が出つつあった個体は、抜け殻が残されていて、羽化が無事に完了して飛び立ったと思われる。今聞こえるセミの声は、そのうちの1匹かな?

一方、もう一つの個体は、ほとんど羽化が終了し、飛び立つ寸前に何かが起こって、結局、羽化に失敗したのであろう。死んだセミが抜け殻にくっついた形で残っていた。

 

セミの一生は長いか、短いか?

 

セミは地中で長い年月を過ごした後で、羽化した後、楽しそうに鳴くのは1ヶ月足らず。ということで、セミの一生はこの1ヶ月に過ぎず、長い年月を地中で堪え忍んだのに、やっと地上に出てきたと思ったらすぐ死んでしまうような哀れないのちだと一般には思われている。しかし、セミの一生は、果たして僅か1ヶ月足らずなのであろうか? セミはその種に拠るが、数年から十数年間、地中で生きている。その長い年月をどのように考えるのか? 

外へ出てきて生きている期間だけがセミの生涯だと考えるから、地中での年月を考えの中に入れないから、哀れを催すのではないだろうか? しかし、セミの生涯は、地中で始まり延々と生き続けた後に外に出てきて、生涯の最後を鳴いて過ごして、そして次世代を残すのである。

 

セミの生涯に哀れを催すことはなく、このような祝福されたいのちを創造主に頂いたのである。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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卒業後58年、高校3年生の若者に還り、心の奥底にひっそりと暖められていた友情が孵化
神戸高校3年6組、77歳のクラス会

1958年3月に卒業した大昔の高校3年生が、神戸で一堂に会した。それぞれにそんなに短くはない人生を歩いてきて、同窓生だから全員平等に本年度中に77歳になる。「人生の終わりがもう遠くないのかな」みたいな予感を誰しも多少とも思い浮かべる年齢である。それで、同窓会を思いついたのかどうか、クラス会の案内が来たのは半年も前のことだろうか。



進学校というレッテルを貼られた学校

歴史的には、学校制度が第二次大戦後に新制度になったときに、 旧制神戸一中と神戸第一女学校が合併して兵庫県立神戸高校になったのだが、 当時兵庫県立高校のNo.1と自負していた(今は違うらしい)。何をもってNo.1と言うかは人によって違うだろうが、当時も優秀な大学への進学率を意味したのかも知れない。但し、進学校としては珍しくクラブ活動が義務づけられているなど全人的教育をするという学校の気風で、神戸一中から受け継いだ「質実剛健」という校是を掲げていた。神戸第一女学校からは「良妻賢母」という校是が掲げられていたが、女生徒たちには不人気で、ほとんど無視されていた。

 やっと学区制の制限から解き放たれて、あこがれの高校に胸躍らせて入学した 当時のことを思い出す。筆者が卒業した中学は、その地域では悪評高くできの悪い中学で、落ちこぼれの行く中学と思われていた。高校へ入学してみて学業の遅れは目を覆うばかりであることに気づかされ、なるほど落ちこぼれの中学校だったのかと劣等感をかき立てられたが、今となってはそれさえも懐かしい。

さて、そのような高校の3年6組は、進学校であったこの学校で11組あった中の最優秀な2つのクラスの1つであったのである。「今だから言おう」みたいな調子で何人かの口から漏らされたことは、「冷たいクラスで、嫌いだった!」ということだった。確かに、男性陣は全体的な雰囲気として大学入試だけが最大の目標のような感じで、何かを親しく話し合った記憶のある人は少なかった。進学クラスではあったが、女性の方は互いに会話があったようで昔の写真を取り出してみると、一人ずつなにがしかの思い出がある。

ともあれ最後のクラスがそんなふうであったせいかどうか、高校卒業後、長い間、クラス会が開かれたことはなかった・・このクラスの同窓会は今回で二回目だそうである。学年の同窓会も滅多になかったようであり、さらに筆者は神戸を離れて東京に行き、その後アメリカに5年余、すっかり縁が途絶えてしまい、行方不明者のリストに載せられていたようであった。帰国後何年か経って見つけ出されて、またつながりが出来た。
それから、学年の同窓会に1度だけ参加したが、結局それきりになっていた。

半数以上が出席した77歳のクラス会

当時のクラス編成は今のクラスに比べると非常に大勢で、56名である。そのうち9名はすでに故人、5人は連絡先が不明である。そして、担任の先生は、もとより故人である。ところがである! 連絡できた42名中、22名、半数以上が出席した。そして、7名は驚いたことに関東からの出席であった。神戸に実家か親戚かがあるのだろうけれど、それでもすごいことだと思った。

「冷たいクラスだった、受験だけが大事な雰囲気だった」みたいな、決して良い思い出を持っていなかったはずなのに、こうして大勢を引き寄せた魅力・原動力は何だろうかと思った。目には見えない並々ならぬ企画者の努力があったのだろうと思った。そしてそれは、至れり尽くせりのいろいろの配慮にもうかがわれた。

開催の時期がよかったことも一つの要因になっているのかも知れない。
1958年に卒業後、58年、そして全員が本年度中に77歳の節目の年齢を迎える。それぞれ、年齢相応に何かしらの病気を抱えていたり、病気をしていなくても、多少とも体のそこここに不調を生じ、体力の衰えを感じている。あるいは、配偶者に先立たれたり、配偶者の世話をしていたり、それぞれ若い時代のようにはいかない。今回、クラス会が企画された。この機会を逃したら、次回は自分はいないかも知れない、あるいはいても出席できる条件がないかも知れない、あるいは自分でなくても出席者の数は減るだろう。そう思い至ったので、参加した人々が大勢いたのかも知れない。
筆者も、実はそうであった。普段の日と異なり、大学は特別な行事を予定していたのだが、それを欠礼してまでこのクラス会に出席することにしたのは・・・・我ながら不思議な思いである。

すでに故人となった先生や級友に思いを馳せて

すでに故人になられた担任の先生や、故人になった旧友たちのために黙祷した。何人かの人によって語られた先生像は、筆者の知らなかった先生であった。貴公子のような雰囲気を漂わせた美男子の先生であり、多かれ少なかれ女生徒の憧れであったのは事実であるが、苦しんでいる生徒や、弱い生徒に心づくしの世話をされたようである。美男子であるだけに、筆者にとっては何か暖かみを感じることがなく近寄りがたい先生、遠い遠い先生であった。同級生の口から語られる暖かい先生の姿を筆者は知らなかったし、そういう先生に接することが出来なかったことを残念に思った。

隣に座っていた人に声をかけると、「心配をする必要の無い優等生はほったらかされたんや。何か問題を持っている生徒には、非常にきめの細かい世話をされた暖かい先生やったんや」とのことらしかった。「私だって、口に出さないだけで色々問題はあったんだよなぁ」と、心の中でつぶやいていた。


女性は全員まだまだ元気だろうと予想していたのだが、故人になっている 9人の中に女性が 3人も入っていたのは驚きであった。級友の中で非常に若くして亡くなったのは秀才のC.K.で、美男子であったためか冷たい感じがしていたが、京大文学部に進学して歴史学を専攻すると聞いていた。

彼については強烈な思い出がある。担任の先生が毎朝のホームルームに英単語5分テストを課せられた。赤表紙の手のひらサイズの英語辞書を1ページから暗記し、覚えたら破り捨てるという方式で、生徒は好むと好まざるとに関わらず従わざるを得なかった。そんな中で、彼は名前だけ書いて白紙で提出し徹底して反抗し続けた。先生は日本史担当なので成績には関係しないが、しかし、彼のこの反抗は、どのような信念で貫き通したのか、ただのつまらない反抗に過ぎなかったのかは分からない。ただ、真似の出来ない彼のこの頑固さには何となく憧れに似た尊敬を抱いていた。美男子の秀才は、花開く前にこの世を去って行った。

英語がよく出来てアメリカに1年留学して帰ってきたM.K.は、明るくてさばさばしていて、筆者とは違った世界にいる人で、筆者は英語に劣等感を持っていたこともあって、ある意味の憧れを抱いていた。彼女は16年半前、60歳の若さで亡くなっていた。

10回生の中で他に追随を許さなかった超秀才のH.M.は、勉強がよく出来たというだけではなく、何をやっても垢抜けしていて、スマートにこなす人であった。入学以来3年間、定期試験の首席の座を他の生徒に明け渡したのは多分1〜2回に過ぎなかっただろう。あまりにもよく出来たためか、かなり大人びていたようで、子供っぽい同級生を何となく小馬鹿にしていたような感じもあった。1学年600人以上いる大きな高校であったが、彼は当然、全先生によく知られていた。東大に進学し、外交官になるのだとかという噂があったが、卒業後は民間の商社に就職したらしい。学校の成績が良かったということと、社会での貢献度の間に関係があるわけではないが、彼のように有能な人材には、学校で学んだことを社会に還元してほしかったという気がする。だが、13年前に亡くなっていた。

豊かな人生を歩いてきた旧友・仲間たち

58年ぶりの級友たち、お互いに年を重ねて全く誰が誰か分からないかと思ったが、しばらく顔を合わせていると接触の多かった女性陣はすぐに昔の可愛い高校生の面影が重なってきた。だが、男性陣で、特に接触の少なかった人々は、なかなか、そうはいかず、思い出せないで苦労した。

それでも一人ずつ、思い思いに自分の58年を3〜5分間かけて語っている間に、初対面ではあり得ない「旧友」の関係、いわゆる「俺お前」みたいな関係が戻ってきたのは、不思議な気がした。長い人生で、たった1年間だけ同じ学校で学んだというだけの関係なのだが、仲間意識が見事に戻ってきたという感じであった。和やかな雰囲気の中であっという間に時間が過ぎていった。

ただ、よく考えてみると「戻ってきた」というのは必ずしも正しくないかも知れない。高校生の時には話したことのない相手と、むしろ新たに旧友みたいな関係が生み出されたと言った方が正しいような感じなのである。ともあれ、かつての楽しい思い出が還ってきたというよりも、神高の同窓生というある種の親しみと安心感の上に新たな友情が、即刻高く築き上げられたようであった。当時、こんなに和気藹々と和んだ時を共に持ったことはなかったという気がする。言うなら、心の奥底にしっかりと潜んでいた友情が、58年の時を隔てて孵化したということかも知れない。

かつてのクラスメートが授けられていた才能の花が開いて、それぞれの場において豊かな実りを得ていたことを互いに発見したのであった。そして、互いを誇りに思い、3年6組のクラスメートであったことを改めて嬉しく思った瞬間だったかも知れない。12時に食事を始め、それぞれが割り当てられている時間の2倍も3倍も話したい風情で、あっという間に3時間という時間が経過した。

ハーモニカを持参した人がいて、「舟木一夫の高校3年生」の斉唱へと全員を導いてくれて、高校3年生に戻って声高らかに歌った。
大学受験を控えて何となく心が冷えたままの高校3年生だった同級生たちは、58年間にそれぞれの人生を歩み、そしてそれなりの成果を上げて、今や、あくせく心を煩わされることが無くなっているだろう。子供も成長し、それなりに最後の用意も出来ているという豊かさがあるのかも知れない。心ゆったりと、童心に戻ることが出来て、新たに高校3年生に生まれ変わったのかも知れない。

  別れを惜しんで、二次会そして三次会へと

互いに別れがたく、近くの喫茶店に繰り出したが、特別に用がある人を除いてほぼ全員、二次会に参加した。筆者はその日のうちに執筆の仕上げをしなければならなかったので、二次会にまで付き合う積もりで来たわけではなかった。しかし、別れがたい思いが強く、原稿が一日遅れたってどうってことないという気になって、付きあうことにした。

二次会で行った喫茶店は割に空いていたこともあり、遂に校歌を全員で斉唱することになった。すばらしい校歌だと今更ながらにかみしめて歌った。当時も、自分たちの校歌を誇らしく思っていたが、58年を経て改めてすばらしい校歌だと思った。

2.若人は 胸の戸を光に開け
  君見ずや 学問の厳しき目指し
  我がものと 究むる自然人文の
  真理の翼羽ばたけば
  若き瞳の輝くを

そして、小腹が空いてきたとか、何とかで、たこ焼きを食べに出かけた。
こうして長時間一緒に過ごし、あれやこれやとお喋りをして、楽しい時間を共有した。

三宮駅への道を歩き始めて、アイスクリームを食べに行こうという四次会の誘いがかかったくらい、互いにもう暫く一緒にいたいという思いが私たちを覆っていた。しかし、さすがに、もう帰宅の時間であった。

このような楽しい同窓会を企画してくださった世話人に、みんなが感謝の心を抱き、また、素晴らしいクラスメートに恵まれた幸せをかみしめて、再会を約束して、三宮駅で、阪神電車へ阪急電車へJRへと別れを告げたのであった。

今回参加できなかった後の20人の方々が、次のクラス会に参加されたらどんなに嬉しいことかと祈りを込めて、このブログを認めた。




















 
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黄色信号を見たら「速度を上げろ!」「無理が通れば道理引っ込む」*** 町も、国会も。 
英会話学習用に作成されている「笑い話・小咄」のテープは、「クス!」と笑えるものが多い。

随分昔のことだが、アメリカから帰ってきてから、夜の時間を利用して英会話を教えていた。
帰国して1年も経たないうちに、英語を喋るのがおっくうになり、あっという間にどんどん会話力が衰えていくのに気が付いた。これではダメだ、何とかしなくてはと思っても普段の生活では、英語は渡米前の昔と同様、読む言語・書く言語であり、話す言語ではなくなってしまっていた。話す力の衰えを少しでも食い止める一助になればと願って、英語学校の講師になった。

今では考えられないほど、当時は英語を母国語とする人によって朗読されたテープ教材は少なかったし、見つけても高価であった。ともあれ、それを見つけて購入し、教室にレコーダーを持ち込んで・・・・驚くなかれ、当時は教室に備え付けられていなかった。筆者が非常勤で勤めた学校は、有名な大手の学校であったのに・・・、リスニング教材にし、そしてそれを聞いて意見を発表する会話力養成のために用いたのである。

その笑い話の一つであるが、父親が息子に運転の仕方を教えている。

父「いつもお父さんがしている通りにすれば、良いのだよ」
息子「うん! 分かった。」
父「では、交差点で青信号はどういうサインかな?」
息子「進め!」
父「そうだ。よく出来た。では、赤信号はどうかな?」
息子「止まれ!」
父「そう、そう。よく出来た。では、黄色信号は?」
息子「速度を上げろ!」
               ********************

・・・・・・日本では高額の教習費用を払って自動車教習所に行かなければならないが、アメリカでは免許を持っている人が助手席に座って助けるならば、一般道路で練習しても構わない。もっとも、州によって法律が異なるので、アメリカ中同じだったかどうかは分からない。また、この話は40年以上も前のことであるから、今はどうか分からない。・・・・・・

・・・・・・割に知られているように、英語では「緑・グリーン」信号である。それを聞いた日本人のかなり大勢の人が、「なるほど! 日本人は間違っている! あれは青ではなくて、緑だ」と合点したそうである。日本人の「白人コンプレックス」の一つの現れかな?と、筆者は残念な気がする。なぜなら、あれは青でも緑でもない。青緑色だからである。どの波長の光をより強く感じるかは、個人差があるので、ある人は緑だと見るが、ある人は青だと見るのであろう。ちなみに、「青」「緑」「紫」「赤」「橙色」「黄色」・・・・と、ある意味で勝手に名付け、他の人も自分と同じように見えていると勝手に仮定しているだけである。百人百色である。・・・・・・
              ********************

この笑話を聞いたときに、筆者はクスッと笑った。アメリカでも黄色信号でアクセルを踏む人が相当いるのかな?と、不思議な気もした。筆者は、アメリカの片田舎で運転しはじめたので、「黄色信号は、ほぼ止まれの合図」「横断歩道があったらもちろん止まる」「前方で歩行者が例え赤信号で歩いていても、止まって歩行者に優先権を与える」のが、常識であった。

日本の運転者は、大阪だけかも知れないが、黄色信号ではアクセルを踏む。この頃、対向する方向が赤になっても、暫くは青にならないので、交差点は全方向で赤信号になる時間が、2-3 秒あるような気がする。そのために、なおのこと黄色信号ではアクセルを踏む人が多いし、赤信号でも交差点に入ってくる車が無視できないほどあるので恐ろしい。

アメリカの田舎運転手である筆者も、そのままの、のんびり運転をしていると、無謀運転をする人が多い大阪で通用しないのはよく承知している。黄色信号では止まらない方が安全だということを知っていて、何とか大事に至らずに済んでいる。しかし、この間、筆者の後ろの車が、まさしく黄色信号でアクセルを踏んだ。筆者が交差点に差しかかるちょっと前に黄色になり、やがて赤になりそうであり、そのまま直進すれば交差点を渡り終えることが出来ないのは必定であった。それで、止まることにした。ところが、後ろの運転手は、赤信号で突っ走りたかった。例え筆者が交差点に入ったとしても、後ろの車は絶対に交差点に入ることは違法であるのは明らかである。にもかかわらず、アクセルを踏んだ。追突にまでは至らなかったが、ほんの僅か筆者の車に接触した。恐ろしい世の中である。

また、今朝見た無謀運転は、「あの運転手はいつか事故を起こすぞ」と思わされた事例である。
やはり、交差点である。赤信号で前の車の後ろに停車したのだが、筆者が前の車にぎりぎりに詰めて停車するのは、詰めなければならない何かの事情がある時だけである。今朝も、詰めて停めなければならない状況ではなかったのでほどほどに、つまり、前の車との間に軽自動車でもちょっと入らないだろうという位の間隔をあけて車を停めたのである。筆者の後ろにはすぐに7〜8台停まったのだが
、その停まっている車の右側を走ってきた、すなわち常識的には右折車かと思われる車が実はそうではなくて、筆者の前に割り込んできた。もちろん、普通サイズの車が一台入る余地はない。斜めに、しかし割り込んだ。

信号が変わって発車する時には、助手席にいた男性が腕を出して「割り込ませろ」と合図をして、筆者の前に割り込んで走った。さて、筆者は暫くこの車の後ろを走っていたが、暫くして、追い越し禁止の区間で広くとってあったゼブラ帯に差しかかると、この無法な車はゼブラ帯を猛突進し始めた。筆者の前を普通に走っていた車 6台を追い越し、そして交差点で一番前の車の前に割り込んでしまった。このような命知らずが、「車」という凶器をぶら下げて我が物顔に町をぶらついているかと思うと、ぞっとする。

これほどひどい運転手を見たのは、初めてである。






 
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最先端の科学技術と神社の御守り袋が共存する日本
 久しぶりのお天気に、洗濯機を回して干し終わってホッと一息、テレビを付けると画面でロボットがバトミントンをしていた。ロボミントンと言うのだそうだ。
 そのロボミントンの、世界大会に出席するための日本の予選をしていたらしい。
ロボットを作成したのは、多分ほとんど、大学の工学部とか専門家集団である。

 イラストは「バドミントンが登場する、1854年に描かれた漫画(Wikipedia)」で、バドミントンのシャトルコックが飛び回っている。











  ロボットに全てを任せて競技をする方法と、ロボットをリモコンで操作して競技する方法があるようで、それぞれの難しさはあるだろうが、第三者の目には、ロボットをリモコン操作でバトミントンをするのは非常に難しそうに見える。というのも、最後の競技の場面に至っても、なお人の様々な能力を必要とするからである。人間の操作性、すなわちバドミントンの羽(シャトルコックというのだそうだ)を観察し、飛んでくる速度と位置を判断し、それに適切に応答してラケットを動かして受け取る角度、飛ばす方向など一切を判断する力と、判断したら即座に応答する瞬発力などを必要とするからである。

 さて、試合直前にロボットの重量を測定すると、制限重量を約500グラム超過しているとのことである。それで、ロボットの不要な部分を取り除いて少しずつ軽くなり、あともう少し、50g?ほど取り除かなければならないが、何を取り除くか? と思案している場面が映し出された。



   
 そして、科学技術の粋を尽くして作成したロボットに、どこかの神社の赤い「御守り袋」がブラブラと揺れているのが映し出されて、何となく不釣り合いで、異様な気がした。
 
 科学技術の最先端と御守り袋、この二つが同一人物の頭の中に渾然一体となる、日本人とはそういう人々なのだろうと思った、









 
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犬は繊細な心遣いをする動物。飼い主と仲良しの人に好意を持ち、飼い主を嫌う人を嫌う
犬は飼い主に協力しない人を嫌う

 京都大学で、犬の行動研究を行ったところ、飼い主に協力しない人を嫌う傾向があるとの実験結果が得られたと発表した。それを、動物行動学の専門誌「アニマル ビヘイビアー」という電子版に発表するという。

 こんなことは、犬を飼っている人なら誰でも知っている常識であるのに、なぜこと新しそうにニュースになって、専門誌に発表するのだろうと、
筆者は不思議に思った。

 犬は、飼い主と飼い主に近寄ってくる他者との関係を敏感に察知して、それに対応した振る舞いをする。
飼い主と親しげであると、落ち着いて待っている。時にはその知人にすり寄っていく。好ましい関係ではないと判断するや否や、喉の奥でうなり声を上げてみたり、下手をすると攻撃しようとさえする。
特に、その飼い主が子どもであったり、弱い(と犬が判断する、おおむね女性だったり老人だったりする)と、その人を護ろうとする行動が目立つ。
こんなことは
犬のごく当たり前の行動なのに・・・・とびっくりした。

京都大学の実験


 犬の前に、飼い主を真ん中にして3人が並んで座る。飼い主は手にした箱を開けられず、両隣の人に助けを求める。一人は援助して一緒に箱を開けるが、もう一人は顔を背けて援助を拒否する。その後で、犬に餌を差し出すと、飼い主を助けた方の人の餌を食べる回数と、拒否した方の人の餌を食べる回数とに顕著に差があったという。・・・・・・「そりゃぁ、そうでしょ。あったりまえじゃない! 飼い犬を可愛がっている人なら、誰でも知っている。」と筆者は思う。


 自らの利害に関係のない第三者間のやり取りを通じ、他者を感情で評価する能力を犬を持っていることを示す結果という。
こうした行動は乳幼児やフサオマキザルで見られるが、犬で確認されたのは初めてという。

 初めて観察されたということに、何となく、「ホンとかな?」と思ってしまった。

我が家のワンちゃん

 現在我が家には、三代目のワンちゃんがいる。シーズー、雄、10歳2ヶ月。韓国で棄てられて、里親を求めて
日本にやってきた。

王者のように威張っていた一代目! ・・・ 押しも押されぬ立派なピカピカの雑種
 一代目は、生まれて里親を捜し回っても引き取り手がなかったという子であった。七匹生まれたが、可愛い子から引き取り手が見つかって
六匹までは里子に貰われていったが、最後に一匹が残ってしまった。里親が見つからないのなら致し方ない、殺処分にすると飼い主が言っていたので、とうとう憐れみを感じて、引き取った子であった。
痩せて、鼻面が真っ黒で子犬らしいモコモコとした愛らしさの微塵もない子で、里親が見つからなかったのも無理はないと思わせられた。

 長じて、男の子のような精悍な顔立ちになったが、いわゆる可愛いと言えるようなご面相ではなかった。だが、例え犬であっても、可愛さはご面相の良し悪しとは関係なく、本当に心根の優しい子で可愛い子であった。
15kgの中型犬であるから活発で、散歩に行くと、筆者が一緒に走るのは、いささか骨が折れた。というより、彼女が走りたがるだけのスピードでは走れなかった。外にいても家にいても、はっきりと飼い主を護ろうとする行動を取り、親しい近所の人には愛想良く振る舞ったが、通りすがりのいかつい男性には明らかな敵意を見せて、筆者を護ろうとした。酔っ払いやタバコの臭いをさせている男性には、大きな声で吠えたり、気をつけないと飛びかかろうとする気配を見せた。

保護者を見つけ、弱々しく縋り付いて生きた二代目
  二代目は、ブリーダーで種犬として苛められた挙げ句に棄てられた六歳のシェルティー(牧羊犬)であった。苛められていたために、家の中に入れて貰って、良い子、良い子と撫でて貰ったり抱いて貰ったりという、それまでして貰ったことのないほど大切に扱われてすっかり安心したようであった。安全だと理解した途端、今度は庭に出るのさえ怖がって、抱いて庭に出さない限り、家の中に閉じこもっていたいという風情であった。ましてや、散歩に連れ出そうとしても、門の外に出すのは大変であった。門の外に出しても、たった一歩でも足を出すのも拒み続けた。まるで声帯を持っていないみたいに、ウンともスンとも言わないで何ヶ月も経ったような気がする。窓の外の車の音に反応して、「ワン!」と声を出したのは何ヶ月も経ってからだった。
 
 こうして、心を開いてくれるまでに、1年近くかかったような気がする。その後は、べったりと寄り添って、頼り切って生きているという風情で生涯を過ごし、14歳で静かに死んだ。そんな子だったからか、飼い主と他の人との関係を敏感に見ており、筆者と良好な関係にあると判断すると、多少は心を開いて接していたし、そうではない行きずりの人に対しては、いつも多少恐れ、警戒して、筆者の陰に隠れようとしていた。


「好き、好き、好き」を体中で表現し、絶対的な信頼を寄せる三代目 
 三代目の今の子は、韓国からやってきた。筆者がワンちゃんと一緒に走るのが辛くなったので、小型犬をと思い、様々な犬種を選別して探した。そして、ほとんど最後的な選択肢であるシーズーが結果的にやってきてしまった。シーズーは犬かと思うほど、ちんちくりんな顔をしており、筆者は余り好きではなかったのである。



 それなのに、候補として我が家にやってきた時の彼の人なつっこい仕草に、ほろりとしてしまったのであった。最初に連れてこられた時、初対面とは思えないほどはしゃぎ回り、リビングルームで走り回っては、「僕、ここに住みたい、一緒に住みたい!」と言っているかの如く膝に縋り付き、一回りしたらまた膝にもたれかかりにきて筆者の顔をじっと見つめ、また走りに行って一回りしては膝にすがりつきにきて、また走り、を繰り返したのである。

 こうして、自分から志願して、我が家に住むことに決めた子で、言うならこの子に押し切られた感じであった。筆者は、シーズーは好きではないと思っていたことを思い出す暇もなく、この子の「好き、好き、好き」を受け容れてしまった。2歳10ヶ月でやってきて、7年余、10歳になり、そろそろ、年寄りになってきた。元々食の細い子だが、さらに少なくなり、また、よく分からないが、耳が遠くなってきたようで、また、行動がゆったりになってきたようである。

 一代目は殺されそうになったのは事実であっても、苛められた体験は持たない。しかし、二代目と三代目は、我が家にやってくるまで相当な体験をしてきていた。苛められていた上に、その後、里親を求めてあちらで2〜3日、こちらで数日とたらい回しにされて、心を病んでいた。そのためかどうか、安全な住み処を与えられ、可愛がられていると察知した後は、かなり依存してくっついて回る。温和しく留守番はするが、それ以外の時は筆者がどこで何をしているかを常に気にしながら、護られているということの確認を取る。

 犬と言えど、苛められると深く傷つき、大切にして貰うと甘ったれるという、繊細な心遣いをするのである。自分を一番護ってくれる人をよく知っているので、餌を与えてくれるというだけの問題ではなく、大切にしてくれる人かどうかがもっと大切なようである。

京都大学の研究に新鮮さを感じられない所以である。 















 
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美空ひばりに見る「プロ根性」・・・・・・日本人が失いつつあるもの
没後25年、四半世紀を経て今なおテレビでしばしばその歌声を響かせる一人の歌手がいる。このように書けば、多くの人はその人の名前を思い起こす位有名な歌手「美空ひばり」である。彼女のファンはこれだけの時間が経っても減らないようで、彼女だけを取り上げた歌や思い出などの各種番組を組んでもかなり視聴率を稼げるからこそ、企画・放映されるのであろうと思う。

彼女の音楽の才能、歌唱力、超人的な音域の広さ、技量、歌謡曲だけでなく様々な音楽ジャンルを見事に歌いこなし、洋楽も、オペラも、浪曲も何でも 我が物として歌いこなすようである。音楽の才能だけではなく役者としても一流であったようであり、それが効果的に生かされた故かどうか、彼女の歌には物語性があり、浅く深く広く、美しい裏声の高音と、喉が震える低音と縦横無尽に声とリズムと流れが織りなして物語を綴っていき、聴く人の心に深く突き刺さる。彼女に与えられた天賦の才は多方面に爆発し、活躍の舞台を広げたようである。天才はしばしば極めつきの自己中心・利己主義で、周囲にいる人の姿が見えないために世の中の秩序を無視する振る舞いをすることがあるが、彼女もその類いの人間であったようである。世の流れ・動きを察知できなかったのではないかと思わせられる数々のエピソードがあるようである。

2年位前であろうか、ある非常に真面目で、真摯な取り組みをしている団体の機関誌の記事として、筆者は美空ひばりを取り上げた。彼女のことをそんなによく知っているわけではないが、それでも彼女の歌声には魅了されていたし、非凡な音楽の才能には感服していたが、しかし、その音楽の才能や実力について書こうとしたわけではない。最近、プロ根性というか、職業人としての意識の欠如した人々、各種職種に於いてその任務にあることを忘れているのではないかと思わせられる無責任な人々が多くなってきている社会の趨勢にうんざりしていたので、執念と言うほどの彼女の「プロ根性」を紹介したいと思ったのである。

しかしながら、真面目で真摯な生き方をしている人々には、眉をひそめたくなる彼女の生き様だけが大問題であるようで、歌の巧拙とは関係なくひんしゅくを買ってボツになってしまった。ついでに言うと、筆者も又、彼女のふしだらとも思えるほどの様々な行動を肯定していたわけではない。

筆者は昔々、美空ひばりという歌手がデビューして割に直後からの静かなファンであった。静かなという意味は、彼女のコンサートに出かけたこともなければ、レコードやCDなど買ったこともなく、ただの一枚も持っていない。ラジオやテレビなどでしばしば放送されたのであろうが、番組表を調べてまで聴くわけではなく、たまたま聴く程度であるから、こんな人間をファンというのは申し訳ないだろう。しかし、たまたま聴く程度であるにしても彼女の歌の相当数を知っており、好きである。

彼女の歌に魅了されたのは、美空ひばりとしてデビューしてそんなに間のない頃で、彼女はまだ子どもであった。日本がまだ戦後の混乱期で、人々が生きる気力を失い荒みきっていたときに、一九三七年生まれの彼女は近所で歌声を披露し拍手を浴び、そして、十一〜二歳で公にデビューしたようである。当時はもとよりテレビなどはなく、音質の悪いラジオから聞こえてくる子どもらしくない歌声に大きな感銘を受けた。燕尾服の写真は1949年「悲しき口笛」を歌っている姿、もう一枚のベレー帽姿は1950年「東京キッド」の衣装姿で、いずれもWikipediaからである。

その後、世の中が大きく変動し美空ひばりは歌謡界の女王として君臨することになり、NHKの年末歌謡コンサートの主役となった。NHKを始め各放送局、レコード会社、映画会社などのドル箱となり、業界の取り巻きは彼女を女王としてたてまつり、したい放題にさせて目に余る様々な傍若無人な振る舞いは放置された。暴力団と関わり、そして遂に弟の刑事事件という極めつきの出来事が起こり、彼女を干し上げようとするマイナスの力が一挙に働いて、方々の公会堂から閉め出され、NHKは年末の歌謡曲コンサートからも閉め出されてマスコミを賑わせた。
この事件の最中に筆者はアメリカにいてアメリカ人とのお喋りの話題になったとき、彼らの反応は「歌手自身が犯罪の当事者ならともかくとして、そうでないなら、関係ないじゃないか」と、人間性と歌手としての働きを分けて考えたのが印象的であった。

この逆境を彼女が如何にして乗り越えたか? もとより彼女の実力が土台ではあるが、その実力は生来の賜物が激しい情熱と、執念としか言いようのない厳しい努力を積み重ねて磨き上げられたものである。彼t女の精進ぶりを間近で見ていた人々が異口同音に証言していることは、プロとしての根性の凄まじさである。「美空ひばり」という芸名を名乗っているときには、私人としての立場を完全に葬り去って行動するという。そして、ファンのために自分を犠牲にして磨き、「演技し尽くして」生きていたという。

その彼女の努力の結果積み上げられた結晶だけがファンや外部の人間に見えていたのである。音楽の天才であらゆるジャンルの音楽を見事にこなす実力者誰にも追随を許さない驚異的歌唱力、舞台でも映画でも歌って演技をする八面六臂の活躍をする一方で、自分勝手で我が儘な、傲慢・不遜・不作法で人を人とも思わない傍若無人な非常識な人間として、まさに鼻持ちならない天才の姿である。そして、褒めちぎる人がいる一方で、様々な非難中傷に曝されて生涯を生きたようである。

舞台でもその他の折々に触れても、一般のファンにはエンターテイナーとしてのサービスを惜しまなかったそうであるが、ある意味でそれは当たり前のこととして受けとめられていたようである。彼女の凄まじいばかりの根性が一般の人々の目に映ったのは、病魔に冒された後の涙ぐましい奮闘ぶりを通してであった。激しい痛み、苦しみを堪え忍んででも、最後まで「美空ひばり」というブランドを守り通そうとする執念が、痛々しいほどにファンの目にも映ったようである。

普通の礼儀正しい人間であるべきだという倫理的側面から非難されている彼女が、一方では平和志向、戦争反対の願いを様々な形で行動に移していた。「一本の鉛筆」と「八月五日の夜だった」(共に松山善三作詞)という二曲は、いずれも広島への原爆投下について描かれた作品である。

一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと私は書く・・・(中略)・・・
一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く / 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く

「第1回広島平和音楽祭」のリハーサルでは、ひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、「広島の人たちはもっと暑かったはずよね」とつぶやき、猛暑のステージのかたわらにずっといたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることが出来ません」と観客に語りかけた。彼女のこの思いやりと、伝えられる傲慢とはどうも相容れない人物像ではあるが、親しい人への我が儘と、プロ根性とは一人の人間の中で矛盾しないで同居できたのであろう。

それから14年後の1988年「第15回広島平和音楽祭」に美空ひばりは再度出演したが、当時、大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎で入院した翌年であり、歩くのがやっとで段差を一人で上ることさえ困難な状況だったという。出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込まれていたベッドで点滴を受けていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りたときには「来て良かった」と語ったという。翌1989年6月に美空ひばりは死去した。

52歳という若さで生涯を終えた彼女に、死後、国民栄誉賞が与えられた。国民栄誉賞が最初に与えられたのは、野球選手・王貞治氏であったと思うが、その後、時の政府や首相などの人気取りだとか様々な思惑やら疑念が飛び交っているが、それはさておいて、取り敢えずはファン以外の人々にもある程度の評価を受けたということだろうか?








 
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生き残り、苦闘の人生を辿った元海軍上等兵の感慨:勝っても負けてもダメですね、戦争というのは 
天皇・皇后のパラオ共和国訪問は、彼の地にいる人々に大きな感銘を与えたようである。

太平洋戦争の話をしても、「何を今頃?」と木で鼻をくくったような反応をされることも少なくない。かつて国土が廃墟と化し、日本人が心身共に疲弊しきったことが、日本の歴史の重要な一幕であることを忘れてしまいたいという後ろ向きの姿勢である。沖縄のことさえなおざりにする日本人は、海外で起こった戦闘のことはグアム島やサイパンの悲劇は多少知られていても、その他については余り知らない、というより知らされていないと言った方が正しい認識かも知れない。

パラオ共和国は面積458平方キロメートル、淡路島の面積(592平方キロメートル)の約78パーセント、人口は約2万1千人の小さな島である。

このパラオ諸島で戦死した人々の殆ど、すなわち1万人以上が、この地図(Wikipediaより)のペリリュー島で死んでおり、生き残ったのは僅か34名だという。戦況がひどくなり敗戦が確実になってきたときに、・・・捕虜になることなど論外であるのは当時の日本では常識であり、死ぬときは潔く死ねと教えられていたが、・・・それ以上に、「玉砕を許さない」という命令が届いたのである。戦って、戦って、戦い抜けという命令であった。それはアメリカ軍のフィリピン攻撃を遅らせるための時間稼ぎで、ペリリュー島の兵隊も、民間人も犠牲にしたのだという。そして、火炎放射器を吹き付けて、隠れていた人々を洞窟ごと焼き尽くしたという。

示している海戦の写真は、アンガウル島沖の海戦の写真である(Wikipediaより)。
 
 

この凄まじい戦いで生き残った34名中の1人、元海軍上等兵が今回の慰問訪問に際して島を訪れた。95歳である。95歳とは思えない元気な様子で、インタビューに答えていた。

「激戦だった。瓶の中にサソリとサソリを入れて,ふたをして殺し合いをやったような格好。・・・どちらが死ぬか,もう逃げ場所がない。」

「戦争というものは、殺されるか、殺すかの戦いでしょ。だから、そういう風なことはもうやっちゃぁいけないと、強いて言いたいわけですよ。」

「勝っても負けても,ダメですね戦争というのは。」 

パラオの国旗は、「月章旗」であり、日本の国旗が元になっているそうである。を表す青地にを表す黄色い丸が配置されている(Wikipediaより)。
現在は4人に1人が日系人だそうである。日本語を流暢に話す現地人が、今回の慰問を歓迎する発言をしていた。
 
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