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初恋の人
  (ご案内)この投稿内容は、CR誌(クリエーション・リサーチ・ジャパン)に連載したものです。



幼い日の甘い思い出

 
  いのちなき砂のかなしさよ
  さらさらと
  握れば指のあひだより落つ。

 

 もうすでに60年も昔のことである。小学校5年、いや6年生になっていたかも知れない。夢多き文学少女であった私は一人の詩人に出会った。彼の短歌・詩は幼い私の心を鷲づかみにし、私は身も心もすっかり吸い取られて、思春期の多感な胸が引き裂かれるほどの恋心を募らせた。彼の短歌、詩にむしゃぶりつき、日記、評論、小説、そして短か過ぎた生涯についても、彼のすべてを知りたいと、次々と読みあさった。

hatsukoi_no_hito_1.jpg この優れた詩人、啄木の最後の数年は無残な、荒んだ生活であった。友人から借金し、勤めに出かける電車賃もないような困窮生活の中にいるのに売春婦のもとに通う。家庭にあっては封建的で我が儘、自己中心極まりない夫である。幼い私が何故、「赦せない不真面目な人間」と、反発や、嫌悪感を覚えなかったのか、今以て不思議である。
 彼の短歌、詩の中にその答えが秘められていたような気がする。全身全霊でいのちを生きていた詩人のがむしゃらな本気、真実、清らかで温かないのちが漲っていた。そのような啄木に私は恋い焦がれたのであろう。
 冒頭の短歌の心を、幼い私がどのように汲み取れたか怪しいものであるが、それでも、砂を握りしめると、さらさらと指の間からこぼれ落ちてしまう頼りない存在を歌った心は、そのまま思春期の私自身であった。永遠の叙情を謳い上げた痛哭の詩人、永遠の青年である啄木の短歌は、多くの人々の痛んだ心を慰め、癒しを与えるようである。

  砂山の砂に腹這ひ
  初恋の
  いたみを遠くおもひ出づる日


詩人として生まれ、生きた

 石川啄木を知らない方々のために簡単に紹介しておこう。本名、石川一、明治時代の歌人・詩人・評論家で、1886 年(明治19 年)生まれ、1912 年、26歳の若さで肺結核で死去した。当時はまだ抗生物質による治療法が知られておらず、一家は肺結核という病魔に魅入られて、母、妻、姉、そして子どもたちが次々と犠牲になった。

 今回の東北大震災の被災地、岩手県岩手郡(現在盛岡市玉山村)の寺の住職の長男として生まれ、両親に溺愛されて育った。当時、寺の住職は村の貴族であり、その秘蔵っ子は幼くして神童と言われるほどの天才であった。盛岡の中学(現在の高校) へ進学するという、上流階級の子弟だけに許される特別待遇の中で、何不自由なく育ったのである。そして、中学でも天才の誉れ高く、逸材ぶりを発揮した。成人に達する直前まで豊かな生活をして、それが啄木を作り上げたのである。

  そのかみの神童の名の
  かなしさよ
  ふるさとに来て泣くはそのこと

 啄木自身も自分の類い希な才能と、詩人として生まれたことを充分認識しており、それが故に生じた才走った傲慢な振る舞いをも自覚していた。多数残っている啄木の写真はいずれも、貴公子のような凛とした雰囲気を漂わすものばかりであるのも、こうした生い立ちを反映しているのであろう。極貧に喘ぎ、家族の問題に苦しみ、遊蕩に溺れて荒んだ生活臭や印象を伝えるような写真は見つからないのである。
 啄木は短歌を三行書きにするという独自の境地を確立したが、奇を衒って三行書きにしたのではなく、彼にあっては短歌は『詩』そのものであった。啄木は言葉の真の意味での詩人だったのである。

hatsukoi_no_hito_2.jpg
 
 

 啄
木の短歌・詩・評論を高く評価し、心から愛する人々がいる一方で、彼の生き様を完膚無きまで貶す人々もいる。
 若くして激しい恋をし、周囲の人々に助けられて19 歳という若さで結婚しておきながら、浮気をしたり、遊郭に通ったりする。友人たちが窮状を見かねて工面してくれたお金を、遊蕩に
使い果たして、寝具まで質に入れなければならないようなことをする。中学で天才の名をほしいままにして、そして中退して上京する。一応定職について安定した収入が得られるようになっても、それを大事にしない。極貧の中から脱出できたはずだと手厳しい非難を浴びせる人々は、次の短歌も「ウソ」に思えるのだろう。

  はたらけど
  はたらけど猶わが生活楽にならざり
  ぢっと手を見る

 しかし、10代最後の日々から26歳で死ぬまでの数年間、極貧の中を生きたので、この歌は彼の真実であり、だから人々に訴える力を持つのであろう。貧困に喘ぐ人々の生活感との間に一分の隙も無い。生活に密着した啄木の短歌は、人々の心にしみ通る共感を呼び、啄木が生まれ育った岩手県の各地や、啄木が放浪した北海道の各地に数多くの歌碑が建てられている。


愛され、愛した

 
hatsukoi_no_hito_3.jpg啄木は生活者としてはほとんど破綻していた。家族、特に妻に、そして友人、知人など周囲の多くの人々に甚大な迷惑を及ぼした。人々に見捨てられても仕方がないと思われる。しかし、家族も友人たちも見捨てず、親身になって面倒を見たのは、人に甘えることが出来、愛される天賦の才があったのであろうか? 一方、啄木自身もまた、これらの人々を愛し、心に掛け、面倒を見ていたことも記録に残っている。
 啄木のことを多少とも知っている人は、文学者、アイヌ研究の第一人者金田一京助と義弟・宮崎郁雨の二人が親身も及ばぬ面倒を見たことを忘れないだろう。金田一京助が家財を売って用立てたのに、啄木はそれを浅草で遊興に費やしたので、息子の春彦は幼心に石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないかと疑ったことがあるという。他にも交友を持った有名人は、与謝野寛、晶子を始め多数の文壇関係者があり、また郷里の人、学校の友人など大勢の知己を数えることが出来る。


いのちを愛した利己主義者

「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない。・・・おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何より可愛から歌を作る。( 「一利己主義者と友人との対話」、文芸雑誌『創作』、1910.11.1. 24 歳)


hatsukoi_no_hito_4.jpg
 

 当時、一流の歌人であっても、文学で生活は成り立たず、歌と生活とは切り離さなければならなかった。 「詩人として生まれてきた」と言った啄木にとっては、詩・文学はいのちそのものであった。詩と生活とが密着していたので、人々の心を打つ詩が生まれてきたのであろう。詩人・芸術家としてぎりぎりのいのちを啄木は生きて、その生活を、<いのちの一秒>を謳ったのである。
 まれに見る天賦の才だけでは生活が成り立たず、また、そこに安住できず苦しみ回って短い生涯を生きた啄木は、いのちをすり減らして燃え尽きたのである。

  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なむと思ふ

 人間の心の奥底に渦巻いている悲しみ、明確に自覚は出来ないもののドロドロした不思議な感情、内側に巣くう罪を鋭くえぐり出している。啄木は聖書を相当読んでいたこともあり、アダムの罪をはっきり認識していたのかも知れない。

  その膝に枕しつつも
  我がこころ
  思いしはみな我のことなり

  かなしきは
  飽くなき利己の一念を
  持てあましたる男にありけり


ヒューマニスト・社会主義者?

hatsukoi_no_hito_5.jpg 啄木の履歴書の名前の肩書きに「平民」と書かれていることに気がつかれただろうか。江戸時代の身分制度が廃止され、四民平等の政策が採用された。しかし、支配階層には皇族・華族・士族の称号が付与され、農民・町民は平民とされて戸籍に明記され、四民平等とは名ばかりであった。
 その後、この身分が形だけ二本線で消された時期があり、完全に書き換えられたのは第二次大戦後、それも相当の年数を経てからであった。

 独歩は霊魂を信じていたが予は確固たる唯物論者であると・・・ (1911 年2 月)

 啄木は自分を「唯物論者・社会主義者」と擬しているが、本当のところ何を意味していたか、分からない部分もある。ともあれ、啄木の心は社会の弱い人々の心に寄り添っていたようである。

 要するに社会主義は、・・・労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与えむとする運動で、・・・一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。(1908.1 21 歳)

  百姓の多くは酒をやめしといふ。
  もっと困らば、
  何をやめるらむ。

 文明の暴力はその発明したる利器を利用して・・・良民の汗を絞って安楽に威張って暮らして行く官人を見、神から与へられた義務を尽さずにも生きる事の出来る幾多の例証を見た。かくて美しい心は死ぬ、清浄は腐れる、美風は荒される、遂に故郷は滅びる。(1906.3.6. 20 歳)

 人間の最後の発見は、人間それ自身がちっともえらくなかったということだ!(1909.4.7. 23 歳)

  人といふ人のこころに
  一人づつ囚人がゐて
  うめくかなしさ


キリスト教・妹三浦光子そして賀川豊彦

啄木より二歳年下であった妹光子は、啄木の我が儘の被害者であり、一番喧嘩した間柄であったが、同時に一番仲良しであった。啄木と同じく頭がよく、高等小学校を卒業すると盛岡市に出て、カトリックの名門校である私立盛岡女学校に入学した。その時「これを読め」と啄木から黒い表紙の聖書を手渡されたそうである。
光子はその後、1907 年10 月に洗礼を受けて後、神学校に入学した。1912 年、聖公会の伝道師となった。1964 年「兄啄木の思い出」を理論社より出版した。「私は誰にも気がねなしに小樽メソジスト教会で洗礼を受けた。」と書かれている。

  クリストを人なりといへば、
  妹の眼がかなしくも、
  われをあはれむ。

 啄木は妹が信じているキリスト教をからかったり、無視したり、議論したりした。「大のキリスト教嫌い」と妹は兄を憐れみ、一方啄木は、「妹は天國があると信じてゐる、悲しくもさう信じてゐる。」と日記に書いている。別の日の日記では、下のように教会批判を展開している。


 いかめしい教会が到る処に立てられて宗教の真の信仰が段々死んだではないか。法律が完成して罪悪が益々巧妙になったではないか。外界の進歩は常に内心の退歩だ。(1906.3.6. 21 歳)

 光子が後に結婚し、共に伝道者として働くことになる三浦清一は、1915 年、20 歳で受洗した。1921 年、神戸の貧民窟で奉仕中の賀川豊彦を光子と共に訪ね、信仰復興の道を示される。三浦清一は1922 年に福岡神学校を卒業し、すぐ光子と結婚。伝道師として阿蘇に赴任した。1941 年12 月、治安維持法の疑いで逮捕され、6ヵ月間獄に繋がれた。当時の社会は混血に対する差別が強く、教団や牧師の仲間から見放されて孤立し、清一は路線変更を強いられた。

hatsukoi_no_hito_6.jpg 1942 年12 月、三浦一家は上京し、賀川豊彦のもとに身を寄せた。1944 年、賀川の社会事業の一つである非行少女の更生施設「神戸愛隣館」の館長となった。1960 年4 月に賀川豊彦が召天するまで、夫妻は様々な面で賀川豊彦との交わりがあった。
 1945 年11 月、日本社会党が結成され、清一は入党し、1951 年から三期、兵庫県議会議員として活躍し、青年男女の心を捉えた。 1962 年、清一が死亡し、その葬儀には、教会堂の周りに数多くの赤旗が立つという、異様な風景が見られた。葬儀が終わり、出棺の時に、清一の棺に党旗の赤旗を掛けて敬意を表したいと社会党から申し出があった。
 戦中戦後を通じて聖公会の忠実な信徒であった光子は、「三浦は死んで、一人の信仰者として神様の許に戻るのですから、この世的な一切の絆を外していただきたいのです」と、きっぱりと断った。
 清一の死後、光子が館長に就任し、よく働いて1968年、80 歳で召天した。
 啄木は光子を初めとして福音を聞く恵まれた環境にいて聖書も読んでいたが、残念ながら信仰に至らなかったようである。

  神有りと言張る友を
  説きふせし
  かの路傍の栗の樹の下

  神様と議論して泣きし――
  あの夢よ!
  四日ばかりも前の朝なりし。



参考文献:
啄木全集、全17 巻、岩波書店(1951)
啄木を繞る人々 吉田弧羊著 改造社(1929)
若き石川啄木ーその作品と思想ー 岡 邦夫 文理書院(1960)
人物叢書 石川啄木 岩城之徳著 吉川弘文館(1961)
石川啄木 日本文学アルバム 筑摩書房(1955)
羊の闘い 三浦清一牧師とその時代 藤坂信子著 熊日出版(2005)
国際啄木学会 1989.12 設立  http://www.takuboku.jp/index.html



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