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いじめ・虐待・迫害 ・・・・ 3.聖書に書かれているいじめ(2)・・・ハガルとサライ
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 人間は一人でいると、その孤独に耐えられない。二人以上いると必ず精神的・行動的な、なにがしかの上下関係を持たないではおられない(孤独の中で生ける主に出会った!)。 事と次第によってこの上下関係が入れ替わったり、また事柄次第でクルクルと上下関係が入れ替わったり、複雑な動きがあるとしても、とにかくもその事柄毎に強い方が弱い方を支配する。気に入らないと「いじめる」「心身への危害を及ぼす」という罪の深い生き物に成り果ててしまっている。この罪の深さが、どれ位制御されて、人間であることの尊厳を見失わないで生きていけるかは、つまるところ、どのような信仰を持っているかにかかっているようである。

「いじめ・しいたげ」に対する聖書の判断

 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(ヨハネの手紙第一 4章16節)

 創造主・イエスキリストは愛である。弱い者を護りなさい、しいたげてはならないと方々に書かれている。それが、基本的な考えである。にもかかわらず、人は実際には弱い者を様々な事柄に於いて、様々な手段を用いていじめているのであるが、それに対して主は時にはいじめた側に厳しい処罰を与えられ、そしていじめられた側には愛を込めた慰めを与えておられる。その具体例を、幾つか眺めてみたいと思う。

名誉を頂き「諸国民の母・サラ」となったサライ
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 アブラム(後に国民の父・アブラハムという名を主に頂く)の妻・サライは、夫アブラムと共に大きな恵みによって、主から「諸国民の母・サラ」という名を頂いた。
サラという名前は、ヘブライ語:שָׂרָה、「高貴な女性」の意で、優れた尊敬されるべき女性であったようである。また、その美貌は65歳になってもなお男性たちの目を引く美しさであったことが書かれている(創世記12:11〜15)。但し、当時の65歳は今の65歳ではない。サラは127歳で死んでいるが、アブラハム(175歳)やその父テラ(205歳) の寿命を考えると、サラは相当の短命であったと考えても良いだろう。その65歳であるから今の20代後半から30歳位の年齢に相当していると想定すると、若さだけが取り柄の美しさではなく、内側まで成熟した女性の美しさを漂わせていたと思われる。また、現在でも50歳以上になっても、妙齢の女性の成熟した美を湛えている女性はかなり多い。

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」(創世記17章15~16節)

 すべてのことに恵まれ、祝福されているように見えたサライ(後にサラ)であったが、子宝に恵まれなかったので、その点に関しては夫アブラム(後にアブラハム)の理解出来ない悩みを抱えていた。そして、75歳にもなってしまい、女として子どもを産む能力を実はとうの昔に失ってしまっていたことを認めざるを得なくなり、とうとう自分がアブラムの子孫を産むことを諦めた。アブラムが星の数ほどの子孫に恵まれると主の約束があるとしたら(創15:5,6)、サライとして選択肢はないように思われた。アブラムの子孫はサライの子でなくても良いのではないか。しかも、当時、女奴隷を夫に与え、その子を自分の子どもにする社会的慣習があった(注)
 (注)日本でも江戸時代末期までこの慣習があったので、母親が誰であっても正妻がその子の母と見なすことがしばしば行われていた。

 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。(創世記16章2節)

 サライの苦しい胸の内は、余り書かれていないので解らないが、サライは子どもが生まれない責任を一身に背負わされ、相当追い詰められていたことは間違いないだろう。サライが不妊であるのは、「主が子どもを産めないようにしておられる」せいであるから、人間には手の施しようがない。サライは子どもを産めないのである。こうしてアブラムの子孫の繁栄のために、エジプト人の女奴隷ハガルを夫アブラムに与えたサライの苦しさを、聖書を読む誰も解ろうとはしない・・・・。この出来事が話題になる度に、筆者はサライのために心痛む思いをしている。夫に別の女を与えたいと願う女性がいるだろうか! しかし、サライは夫のために、民族の繁栄のために、そして多分、繁栄を約束された主のために、・・・間違った不信仰な行動ではあるが・・・、追い詰められてアブラムに女奴隷ハガルを与えたと考えられる。

奴隷にいじめられ、主の裁きを訴えたサライ
 

 さて、ハガルが妊娠したために、大問題が発生する。

彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」(創世記16章4節)

 日本の歴史でも「同様の話をよく聞くなぁ!」と思われるだろう。有名な例は、豊臣秀吉の側室、淀君である。正妻以外に、数多くの側室を抱えた放蕩者、たちの悪い秀吉だったが、そのどの側室にもいっさい子どもが出来なかったにも拘わらず、織田信長の姪である茶々(後に淀君と呼ばれた)には、二度にわたって子どもが出来た。そして、・・・この淀君と淀君の子ども秀頼との連携のために、豊臣家があのような形で滅亡したのかも知れないほどの、側室の子どもというのは由々しいお家騒動の火種になるものである。

 一体、ハガルがどの程度サライを見下げ、横柄な態度を取ったのか、そしてアブラムがどの程度、それを認めるような態度を取ったのかいっさい解らない。ただ、「みごもった」というたったその一事でもってサライの心はズタズタに引き裂かれたのは確かである。「それを願ってアブラムにハガルを与えたのではないか」というのは、表面だけを見た、ただの理屈である。妊娠という行事に伴って起こった奴隷の横柄な態度、侮辱を耐えなければならなかった屈辱・・・・これを「いじめ」という言葉を使って聖書には描写されていないが、しかし、「子どもを授かった」という優越感に浸った奴隷の、女主人への「究極のいじめ」でなくて何だろう。しかも、アブラムはそれを放置した。妊娠してもハガルが主人に鄭重な態度をとり続けたならば、そして夫がサライの苦しみを理解していたわっておれば、サライの心があんなにも引き裂かれることはなかったであろうという気がする。

 サライはアブラムに訴えるときに、ハガルを追い出せとか、そういうことは言っていない。

【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

 主の裁きを、アブラムと自分との間に願ったのである。

サライの復讐、奴隷の逃亡、傍観していたアブラム
 

 そして、このサライの訴えに対して、アブラムはどのような対応をしただろうか? 
 

アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。(創世記16章6節、新改訳)
 
ijime_3_2_3.jpg 新改訳で「いじめ」と翻訳されている言葉は、新共同訳では「つらく当たった」、NKJVでは「厳しく取り扱った」と翻訳されている。どれだけの会話があったか分からないが、少なくともアブラムは自分が解決に手を貸さずに、逃げているのである。今の言語で言うならば、「自分の奴隷じゃないか、勝手にせぇよ。私は知らん!」みたいな、男の身勝手を嗅ぎ取らずにはおられない。確かに、ハガルを与えたのはサライであり、責任無しとは言えないが、星の数ほどの子孫を与えるという、主の大きな祝福を受けたのはアブラムであって、サライではない。このことにサライがどれほどの負担を味わわなければならなかっただろう。

 それなのに主の声に従わず、ハガイに子どもをもうけてしまったアブラムの無責任、そのことに対する様々な心遣いをしなかったから、ここに至ったのに、後始末はすべて妻任せ、自分は知らんという傍観者の振る舞いである。当時の家長の権限を考慮に入れると、なおのこと、起こったことにも問題を感じないではおれないし、妊娠したハガルが優越感を振りかざして、サライをいじめたことに対して、夫として家長として然るべき処理を怠ったことを重く受けとめないではおられない。かくて、サライはいじめに対して、主人の権力を行使してハガルをいじめた。どのようにとは書かれていないが、ハガルがつらくて逃げてしまうほどのものだったのである。

主の裁断・慈愛
 

 この様な一連の出来事を、もちろん主は逐一ご存じであった。サライのつらい心も、逃げたハガルの苦しみも、無責任なアブラムのことも。そして荒野に逃げたハガルの元に、天使を遣わされ、慰めを与えられると共に、彼女に振る舞いを正すようにという注意も与えられた。また、生まれてくる子どもをイシュマエルと名付けるようにと、主が名付け親となられ、どのように子孫が増えていくかも預言を与えて痛み苦しんでいるハガルに充分な慰めを与えられた。

そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(創世記16章9節)

ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。 (創世記16章13節、新共同訳)

 こうして、アブラムは無責任男で後始末をせず、ハガイにもサライにも庇護を与えなかったが、サライが主が裁かれますようにと願った通り、サライに解決を与えられ、一方のハガイにも、主が大きな祝福を与えられたのである。

 この後の、サライ、ハガル、そして生まれてくるイシュマエル、そして約束の子イサク、そしてアブラムの壮大なドラマの中でさらに起こる「いじめ」問題に焦点を当てて、次項で見てみよう。
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