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死と向き合う・・・心臓弁膜症の手術を目前に控えた患者の恐怖
 人はこの世に生を受け、様々ないのちを生きて、やがて死ぬ。頭の中で誰でも解っているが、それは遠い将来のことであり、目下は自分のことではないと、大多数の人々は無意識下にそのように感じ取っている。日本人の死生観は、神道、仏教、儒教、諸々の土着信仰の入り交じった不思議な「宗教・信仰」に根ざしている。そして、この死生観は、侘び・さびの世界に直通し、死は暗闇であり、見つめたくない、避けて通りたいということになるのは当然のことだろう。先に「臨床宗教師」という題目で書いた通り、遠い問題だと思っている間は死の問題を語れても、いざ、死に直面したときには、とても直視できないというのが本音になってしまう。

 手術で死ぬかも知れない状況に直面した患者の実例をここで紹介しよう。これは筆者が実際に接した患者ではないが、信頼できるある牧師が語られた実例である。

 その患者は28歳の男性であったが、心臓弁膜症の手術を受けなければならなくなった。2014年の現在でも、心臓弁膜症の手術は大変な手術であるが、この実例は30年以上、多分40年も前のことである。この3−40年の外科手術の進歩は目覚ましいものがあるだけに、当時の危険率の高さは相当なものだっただろう。手術は、低体温にして様々な代謝機能を一旦休憩させて、心臓手術を行う術式だったという。この患者の弟が、この牧師の牧会する教会の教会員だったので、病院に来て欲しいと頼みこんだのである。

 こうして、この牧師が病床を見舞うことになったのであるが、未信者と言うよりはほとんどアンチキリスト教であったので、牧師の話を聞きたがらなかったという。「病気になったために、色々な牧師やら宗教者がやってきて色々話してくれて、聞き飽きた。そんな話は何の役にも立たない」と言う。それで、病気の話も、生死の話も、聖書の話も、およそ、キリストとは何の関係もない話をしばらくして、「では、帰ります」と挨拶をして別れを告げると、「あなた、面白い人ですね。また来て下さい」と頼まれたという。それから、何回かお見舞いに訪れては、ただ、言わば世間話のような話をしていたという。

 ところが、手術の前々日、間近に迫ってきた手術に彼は怯え始めた。「心配で、心配でたまらないので、何とかしてほしい」という。この患者は、弟がクリスチャンでもあり、また大勢の人がやってきては福音を語っていたので、知識はあったらしい。だから、この牧師の話も断ったのであろう。安心を得るためにそんな知識は何の役にも立たなかったのである。助けてほしいと言うこの患者に、安心を得るための最短の道筋を語ったという。福音を簡潔に語り、きちっと罪の告白をして、赦しを乞うことだと、当然のこととして語ったのである。患者は、「解りました。そうします」と始めて素直に受けとめた。

 さて、翌日行って「どうですか?」と聞くと、言われた通りにきちんとしたが、益々不安になってきたという。そんなはずはないでしょうと確かめると、福音は間違いなく理解している。一つ一つ確認しても、細部に亘ってしっかりと理解しているのである。それで、くどいほどに彼がどのようにしたか確認を取ると、最後に重大なことが判明したのである。
彼は次のように言った。
「罪と言われても、何しろ28年分ありますから、忘れていることも山とあるでしょうし、一つずつ告白なんか出来ません。28年分まとめてお願いします。済みませんでした。」と言ったという。

 そんなことでは、罪を告白したことにはならないということで、思い出す限りで良いし、祈っている間に思い出させて頂けることもあるから、出来るだけ具体的に、一つずつしっかりと告白して主の赦しを乞いなさいと言われて、彼は始めて真剣に主と向かい合ったようである。

 さて、その翌日、手術の前に病院に行くと、彼は晴れ晴れとした顔をして、次のように言ったという。「今まで、こんなにぐっすり眠ったことはない。すっかり安心しました。もう大丈夫です。」そして、付け足したことが面白い。「例え手術が失敗に終わっても構いません。神の国に行けるから良いんです」と。牧師は、そんなことを言ったっけとびっくりしたそうであるが、そんなことまで付け足して、安心の境地に立っていたそうである。
 
 そしてまた、それまでお兄さんに散々福音を語ったであろう弟に向かって、「こういうことを知らないんじゃないか」と言ったそうである。知っていたら当然語ってくれたはずであるからということなのだろう。これは、ある真理を突いているという気がする。

 カトリックでは「告解室」に信徒が入って、格子か何かで仕切られている別の小部屋に神父がいて、神父に罪の告白をするようであるが、今もそうするのかどうかは知らない。プロテスタントでは、告白する相手は罪のない神であるイエス・キリストであり、キリストと告白する人との間に同じ罪人である牧師とかという宗教人が入ることはない。そのためにかどうか、この大切なことがしばしば、なおざりになっていることがある。罪の告白をしっかりしないままに、そして心の奥底からほとばしり出る、まともな信仰告白をしないで、形だけを整えて洗礼を受けたら「クリスチャン」ということに、牧師も、周りも当人も思ってしまっているようである。

 しかし、主との対話がなされないままに、すなわち「心で信じて」という部分がなおざりにされたままであると、如何に形を整えて「信仰告白のような美辞麗句や文言」を唱えても、洗礼を受けても、クリスチャンとはなり得ないのである。神の御前に心が洗われて、罪の告白をして、始めて生まれかわり、クリスチャンとなるのである。形の儀式が大切でないとは言わないが、しかし儀式によってクリスチャンになるわけではないのである。

 クリスチャンが心の平安を保つことが出来るのは、強いからでも、頑張っているからでもない。この男性の例に如実に顕れているように、主の御前に自分の姿をしっかりさらけ出したときに、本当のいのちを与えられ、平安に満たされるのである。それが、クリスチャンなのである。

 




 
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