名も無きクリスチャンの生涯シリーズ紹介:長野キリスト集会の特別企画
「地上の星:名も無きクリスチャンの生涯」シリーズ
長野キリスト集会が主催されたセミナー(2014年9月)に招かれて、共に学び、主に豊かに祝福された三日間を過ごさせて頂いたときに、素晴らしいお土産を頂いた。それは、長野キリスト集会のリーダー、尾崎富雄先生による「聖書を読む会」における講義のCDである。
そのタイトルで分かるように、名も無きクリスチャンについて詳細に調べて、彼らの信仰を温かく伝えている。その要約を順次、ご紹介する。いずれも実に敬虔なクリスチャンたちの感激の生涯が語られているので、是非CDを聞いてみられることをお薦めする。これは、長野キリスト集会で2011年10月7日から始まった特別企画である。
筆者が頂いたCDは以下の十三人の方々のCDである。
このシリーズ、1〜36まで、36名の方々についてCDがある。今後、後23名のCDについて聴いて、順次ご紹介する。
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「聖書を読む会」特別企画 タイトル「地上の星--名もなきクリスチャンの生涯」
メッセージはゴスペルホール代表、尾崎富雄氏による
第1回 2011年10月7日(金)
第36回 2014年11月7日
各回、平均CD2枚に納められている
問い合わせ先 長野キリスト集会 〒381-0082 長野県長野市上駒沢918-8 TEL・FAX026-295-6705
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名も無きクリスチャンの生涯 (4) 大原孫三郎と倉敷の奇蹟 1枚
石井十次というクリスチャンに出会い、自らもクリスチャンとなった大原は、大胆な信仰と類い希な商才で巨額の富を手にするが、それを惜しげもなく孤児院や美術館のために注ぐ。大原の人生を変えた聖書について一緒に考える。
名も無きクリスチャンの生涯 (5) 友無き者の友となりて・西村久蔵 1枚
作家、三浦綾子さんがクリスチャンになるきっかけとなったのは「愛の鬼才」と言われた西村久蔵氏との出会いでした。北の大地で、真実一筋に生きた愛の人、西村久蔵の信仰と苦闘の足跡を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (6) 白洋舎創業者・五十嵐健治 全3枚
名も無きクリスチャンの生涯 (7) 白洋舎創業者・五十嵐健治・続編
8ヶ月で生母と別れ、5歳で養子となった五十嵐健治は、一攫千金を夢見て16歳で家を出、波瀾万丈の道を歩みますが、やがてキリストに出会い、人の垢を洗うクリーニング業に辿り着きました。熱烈な信仰に貫かれた、クリーニングの「白洋舎」創業者の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (12) 仏教からキリストへ・亀谷凌雲 1枚
浄土真宗の開祖、親鸞上人の八代目の孫にあたる蓮如上人の家系に長男として誕生。旧制四高から東京帝大に進み、哲学、比較宗教学を学ぶが、仏教に本当の答えはないと煩悶。悩み抜いた末、聖書こそが真理と確信し、クリスチャンとなる。凌雲が生涯の拠り所とした聖書の真理について学びます。
名も無きクリスチャンの生涯(16) 燃ゆる生命・亀井光子 4枚
名も無きクリスチャンの生涯 (17) 燃ゆる生命・亀井光子・続編
不治の病による闘病生活20数年。絶望と苦悩の死の淵で、「何故私だけがこのようにひどい苦しみを受けなければならないのか? 私は生まれてこない方がよかった!」と絶叫した亀井光子が、死の宣告を受けて八年後、「生きていてよかった!」と喜びと希望に溢れていた! 彼女に生きる意味と目的を与えた聖書について学びます。
名も無きクリスチャンの生涯 (19) 鹿鳴館の華から福祉の母へ・石井筆子 2枚
日本初の女子留学生としてフランスに留学。帰国後は家族女学校の教師となり、その美貌から「鹿鳴館の華」と謳われ、社交界でも注目を浴びた。しかし、恵まれた筈の結婚後、運命は暗転する。生まれた三人の子のうち、二人は知的障害があり、後の一人は衰弱で出産後ほどなく死亡したのである。数々の危機を乗り越え、神に頼りつつ、信念を貫き、現在の知的障害教育の礎を築いた筆子の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (21) なぜ長崎に原爆が?平和への祈り・永井 隆 2枚
明治41年、島根県に生まれ、長崎医科大学の医者となる。当時不治の病とされていた結核の研究のため、何百人ものレントゲン写真を撮るうちに白血病にかかる。昭和20年8月9日に爆心地から700メートルの診察室で被曝。病床に伏し、43歳の若さで召天。博士の「平和を」の願は多くの人の心の中に生きている。
名も無きクリスチャンの生涯 (22) 二千人の混血孤児の母として・沢田美喜 2枚
1901年、三菱の三代目総帥、岩崎久弥の長女として生まれる。キリスト者だった沢田慶三と結婚して自らもクリスチャンに。1947年2月、ごった返す列車の中で黒人嬰児の死体が入った風呂敷包みが美喜の上に落ちてきた。警察にあらぬ疑いを掛けられ、罵詈雑言を浴びる。疑いは晴れたが、このことを機に混血児救済を決心。戦後の混乱期、二千人近い孤児を引き受け、育てた美喜の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (29) ハンセン病による数奇な生涯・井深八重 2枚
会津藩家老の家柄に生まれた八重は、英才教育を施されて、長崎女学校へ赴任。ところが縁談を前に肌に赤い斑点が現れ、精密検査を受けたところ「ハンセン病」と診断。名門井深家より籍を抜かれ、隔離入院。入院した病院長のレゼー神父と患者たちの明るい姿を見て今まで知らなかった世界を発見する。その後、八重のハンセン病診断が誤診だったことが判明するが、八重は敢えて病院に残ることを決断。「自分がここにいることは恵みです。神様からこの場を与えられたことを感謝します」と明言した八重の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (30) その栄光と挫折の物語・W.S.クラーク博士 2枚
Boys be ambitious (青年よ 大志を抱け)で余りにも有名なクラーク博士は、以外にも母国アメリカではほとんど知られていない。札幌農学校(現北海道大学)の礎を築いた8ヶ月という短期間で、日本、また日本人に与えた影響の大きさは計り知れない。その背後には、クラーク自身の若き日の信仰覚醒、アマースト大学での新島襄との出会い等が大きく関わっている。内村鑑三、新渡戸稲造など、世界に影響を与える人物に感化を与え、今日も日本人の記憶に鮮明に残りながらも、多くを知られることのないW.S.クラークの実像に迫ります。
名も無きクリスチャンの生涯(31) 洞爺丸遭難で命を捨てたカナダ人A.R.ストーン宣教師 2枚
昭和29年(1954年)9月26日夜、台風15号に襲われた青函連絡船「洞爺丸」は荒れ狂う海の中で木の葉のように翻弄され、やがて沈没した。行方不明者1155人という日本海難史上最大の惨事である。この沈没寸前の船内で、恐怖におののく乗客たちを励まし、慰め、自ら付けていた救命胴衣を日本人乗客に譲り、自らは海に呑み込まれていった宣教師たちがいた。その一人がアルフレッド・ストーンである。今まで余り知られることのなかったその生涯にスポットライトを当て、その人となりに迫ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (32) 名医、聖書全巻を日本語に訳す!J.C.ヘボン 2枚
辞書も満足になかった時代に、聖書和訳という偉業を成し遂げた中心人物は何とアメリカ人だった。結婚後、医師としての不動の名声を勝ち得ていたヘボンであったが、開国したばかりの日本に福音を伝えることこそが自分の使命と確信し、周囲の猛反対を押し切ってまだキリシタン禁制の1859年に来日。当時は外国人排斥の空気が強い中、多くの患者の手当をし、次第に信頼と名声を勝ち得ていく。その中で当時の日本人の寿命が短い原因は不道徳と罪にあることを見抜き、「人間の不幸に対する唯一の万能薬」である福音を伝えるために聖書翻訳を決意。日本人の協力を求めながら、ただ一人最初から最後まで関わった。日本の恩人とも言うべき、ヘボン博士の波瀾万丈の人生を紹介します、
名も無きクリスチャンの生涯 (33) 絶望の淵から希望の生涯へ・三橋萬利 2枚
1928年(昭和3年)、青森に生まれるが、小児麻痺のため、両足と右手の機能を失う。小学校にも入学できなかったが、全くの独学で大学入学資格検定の一部学科に合格。21歳の時クリスチャンになり、その喜びを伝えようと伝道者を志す。妻となった幸子は看護学校を中退して勘当されるが、二人はそれに屈せず、四面楚歌の中、軽井沢聖書学院にて学びと訓練を受ける。その後、函館、札幌で教会を設立。幸子夫人の背に負われて、日本国内、又世界数十ヶ国を訪ね、聖書メッセージを伝えた。2004年、台湾より帰国直後の日曜日「神に会う備えをせよ」と礼拝メッセージをしたその夕方に、天に召された。劇的な、しかし、満ち足りた生涯であった。
長野キリスト集会が主催されたセミナー(2014年9月)に招かれて、共に学び、主に豊かに祝福された三日間を過ごさせて頂いたときに、素晴らしいお土産を頂いた。それは、長野キリスト集会のリーダー、尾崎富雄先生による「聖書を読む会」における講義のCDである。
そのタイトルで分かるように、名も無きクリスチャンについて詳細に調べて、彼らの信仰を温かく伝えている。その要約を順次、ご紹介する。いずれも実に敬虔なクリスチャンたちの感激の生涯が語られているので、是非CDを聞いてみられることをお薦めする。これは、長野キリスト集会で2011年10月7日から始まった特別企画である。
筆者が頂いたCDは以下の十三人の方々のCDである。
このシリーズ、1〜36まで、36名の方々についてCDがある。今後、後23名のCDについて聴いて、順次ご紹介する。
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「聖書を読む会」特別企画 タイトル「地上の星--名もなきクリスチャンの生涯」
メッセージはゴスペルホール代表、尾崎富雄氏による
第1回 2011年10月7日(金)
第36回 2014年11月7日
各回、平均CD2枚に納められている
問い合わせ先 長野キリスト集会 〒381-0082 長野県長野市上駒沢918-8 TEL・FAX026-295-6705
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名も無きクリスチャンの生涯 (4) 大原孫三郎と倉敷の奇蹟 1枚
石井十次というクリスチャンに出会い、自らもクリスチャンとなった大原は、大胆な信仰と類い希な商才で巨額の富を手にするが、それを惜しげもなく孤児院や美術館のために注ぐ。大原の人生を変えた聖書について一緒に考える。
名も無きクリスチャンの生涯 (5) 友無き者の友となりて・西村久蔵 1枚
作家、三浦綾子さんがクリスチャンになるきっかけとなったのは「愛の鬼才」と言われた西村久蔵氏との出会いでした。北の大地で、真実一筋に生きた愛の人、西村久蔵の信仰と苦闘の足跡を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (6) 白洋舎創業者・五十嵐健治 全3枚
名も無きクリスチャンの生涯 (7) 白洋舎創業者・五十嵐健治・続編
8ヶ月で生母と別れ、5歳で養子となった五十嵐健治は、一攫千金を夢見て16歳で家を出、波瀾万丈の道を歩みますが、やがてキリストに出会い、人の垢を洗うクリーニング業に辿り着きました。熱烈な信仰に貫かれた、クリーニングの「白洋舎」創業者の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (12) 仏教からキリストへ・亀谷凌雲 1枚
浄土真宗の開祖、親鸞上人の八代目の孫にあたる蓮如上人の家系に長男として誕生。旧制四高から東京帝大に進み、哲学、比較宗教学を学ぶが、仏教に本当の答えはないと煩悶。悩み抜いた末、聖書こそが真理と確信し、クリスチャンとなる。凌雲が生涯の拠り所とした聖書の真理について学びます。
名も無きクリスチャンの生涯(16) 燃ゆる生命・亀井光子 4枚
名も無きクリスチャンの生涯 (17) 燃ゆる生命・亀井光子・続編
不治の病による闘病生活20数年。絶望と苦悩の死の淵で、「何故私だけがこのようにひどい苦しみを受けなければならないのか? 私は生まれてこない方がよかった!」と絶叫した亀井光子が、死の宣告を受けて八年後、「生きていてよかった!」と喜びと希望に溢れていた! 彼女に生きる意味と目的を与えた聖書について学びます。
名も無きクリスチャンの生涯 (19) 鹿鳴館の華から福祉の母へ・石井筆子 2枚
日本初の女子留学生としてフランスに留学。帰国後は家族女学校の教師となり、その美貌から「鹿鳴館の華」と謳われ、社交界でも注目を浴びた。しかし、恵まれた筈の結婚後、運命は暗転する。生まれた三人の子のうち、二人は知的障害があり、後の一人は衰弱で出産後ほどなく死亡したのである。数々の危機を乗り越え、神に頼りつつ、信念を貫き、現在の知的障害教育の礎を築いた筆子の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (21) なぜ長崎に原爆が?平和への祈り・永井 隆 2枚
明治41年、島根県に生まれ、長崎医科大学の医者となる。当時不治の病とされていた結核の研究のため、何百人ものレントゲン写真を撮るうちに白血病にかかる。昭和20年8月9日に爆心地から700メートルの診察室で被曝。病床に伏し、43歳の若さで召天。博士の「平和を」の願は多くの人の心の中に生きている。
名も無きクリスチャンの生涯 (22) 二千人の混血孤児の母として・沢田美喜 2枚
1901年、三菱の三代目総帥、岩崎久弥の長女として生まれる。キリスト者だった沢田慶三と結婚して自らもクリスチャンに。1947年2月、ごった返す列車の中で黒人嬰児の死体が入った風呂敷包みが美喜の上に落ちてきた。警察にあらぬ疑いを掛けられ、罵詈雑言を浴びる。疑いは晴れたが、このことを機に混血児救済を決心。戦後の混乱期、二千人近い孤児を引き受け、育てた美喜の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (29) ハンセン病による数奇な生涯・井深八重 2枚
会津藩家老の家柄に生まれた八重は、英才教育を施されて、長崎女学校へ赴任。ところが縁談を前に肌に赤い斑点が現れ、精密検査を受けたところ「ハンセン病」と診断。名門井深家より籍を抜かれ、隔離入院。入院した病院長のレゼー神父と患者たちの明るい姿を見て今まで知らなかった世界を発見する。その後、八重のハンセン病診断が誤診だったことが判明するが、八重は敢えて病院に残ることを決断。「自分がここにいることは恵みです。神様からこの場を与えられたことを感謝します」と明言した八重の生涯を辿ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (30) その栄光と挫折の物語・W.S.クラーク博士 2枚
Boys be ambitious (青年よ 大志を抱け)で余りにも有名なクラーク博士は、以外にも母国アメリカではほとんど知られていない。札幌農学校(現北海道大学)の礎を築いた8ヶ月という短期間で、日本、また日本人に与えた影響の大きさは計り知れない。その背後には、クラーク自身の若き日の信仰覚醒、アマースト大学での新島襄との出会い等が大きく関わっている。内村鑑三、新渡戸稲造など、世界に影響を与える人物に感化を与え、今日も日本人の記憶に鮮明に残りながらも、多くを知られることのないW.S.クラークの実像に迫ります。
名も無きクリスチャンの生涯(31) 洞爺丸遭難で命を捨てたカナダ人A.R.ストーン宣教師 2枚
昭和29年(1954年)9月26日夜、台風15号に襲われた青函連絡船「洞爺丸」は荒れ狂う海の中で木の葉のように翻弄され、やがて沈没した。行方不明者1155人という日本海難史上最大の惨事である。この沈没寸前の船内で、恐怖におののく乗客たちを励まし、慰め、自ら付けていた救命胴衣を日本人乗客に譲り、自らは海に呑み込まれていった宣教師たちがいた。その一人がアルフレッド・ストーンである。今まで余り知られることのなかったその生涯にスポットライトを当て、その人となりに迫ります。
名も無きクリスチャンの生涯 (32) 名医、聖書全巻を日本語に訳す!J.C.ヘボン 2枚
辞書も満足になかった時代に、聖書和訳という偉業を成し遂げた中心人物は何とアメリカ人だった。結婚後、医師としての不動の名声を勝ち得ていたヘボンであったが、開国したばかりの日本に福音を伝えることこそが自分の使命と確信し、周囲の猛反対を押し切ってまだキリシタン禁制の1859年に来日。当時は外国人排斥の空気が強い中、多くの患者の手当をし、次第に信頼と名声を勝ち得ていく。その中で当時の日本人の寿命が短い原因は不道徳と罪にあることを見抜き、「人間の不幸に対する唯一の万能薬」である福音を伝えるために聖書翻訳を決意。日本人の協力を求めながら、ただ一人最初から最後まで関わった。日本の恩人とも言うべき、ヘボン博士の波瀾万丈の人生を紹介します、
名も無きクリスチャンの生涯 (33) 絶望の淵から希望の生涯へ・三橋萬利 2枚
1928年(昭和3年)、青森に生まれるが、小児麻痺のため、両足と右手の機能を失う。小学校にも入学できなかったが、全くの独学で大学入学資格検定の一部学科に合格。21歳の時クリスチャンになり、その喜びを伝えようと伝道者を志す。妻となった幸子は看護学校を中退して勘当されるが、二人はそれに屈せず、四面楚歌の中、軽井沢聖書学院にて学びと訓練を受ける。その後、函館、札幌で教会を設立。幸子夫人の背に負われて、日本国内、又世界数十ヶ国を訪ね、聖書メッセージを伝えた。2004年、台湾より帰国直後の日曜日「神に会う備えをせよ」と礼拝メッセージをしたその夕方に、天に召された。劇的な、しかし、満ち足りた生涯であった。
2015.01.11 Sunday | category:信仰・クリスチャンの生活
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