<< main >>
卒業後58年、高校3年生の若者に還り、心の奥底にひっそりと暖められていた友情が孵化
神戸高校3年6組、77歳のクラス会

1958年3月に卒業した大昔の高校3年生が、神戸で一堂に会した。それぞれにそんなに短くはない人生を歩いてきて、同窓生だから全員平等に本年度中に77歳になる。「人生の終わりがもう遠くないのかな」みたいな予感を誰しも多少とも思い浮かべる年齢である。それで、同窓会を思いついたのかどうか、クラス会の案内が来たのは半年も前のことだろうか。



進学校というレッテルを貼られた学校

歴史的には、学校制度が第二次大戦後に新制度になったときに、 旧制神戸一中と神戸第一女学校が合併して兵庫県立神戸高校になったのだが、 当時兵庫県立高校のNo.1と自負していた(今は違うらしい)。何をもってNo.1と言うかは人によって違うだろうが、当時も優秀な大学への進学率を意味したのかも知れない。但し、進学校としては珍しくクラブ活動が義務づけられているなど全人的教育をするという学校の気風で、神戸一中から受け継いだ「質実剛健」という校是を掲げていた。神戸第一女学校からは「良妻賢母」という校是が掲げられていたが、女生徒たちには不人気で、ほとんど無視されていた。

 やっと学区制の制限から解き放たれて、あこがれの高校に胸躍らせて入学した 当時のことを思い出す。筆者が卒業した中学は、その地域では悪評高くできの悪い中学で、落ちこぼれの行く中学と思われていた。高校へ入学してみて学業の遅れは目を覆うばかりであることに気づかされ、なるほど落ちこぼれの中学校だったのかと劣等感をかき立てられたが、今となってはそれさえも懐かしい。

さて、そのような高校の3年6組は、進学校であったこの学校で11組あった中の最優秀な2つのクラスの1つであったのである。「今だから言おう」みたいな調子で何人かの口から漏らされたことは、「冷たいクラスで、嫌いだった!」ということだった。確かに、男性陣は全体的な雰囲気として大学入試だけが最大の目標のような感じで、何かを親しく話し合った記憶のある人は少なかった。進学クラスではあったが、女性の方は互いに会話があったようで昔の写真を取り出してみると、一人ずつなにがしかの思い出がある。

ともあれ最後のクラスがそんなふうであったせいかどうか、高校卒業後、長い間、クラス会が開かれたことはなかった・・このクラスの同窓会は今回で二回目だそうである。学年の同窓会も滅多になかったようであり、さらに筆者は神戸を離れて東京に行き、その後アメリカに5年余、すっかり縁が途絶えてしまい、行方不明者のリストに載せられていたようであった。帰国後何年か経って見つけ出されて、またつながりが出来た。
それから、学年の同窓会に1度だけ参加したが、結局それきりになっていた。

半数以上が出席した77歳のクラス会

当時のクラス編成は今のクラスに比べると非常に大勢で、56名である。そのうち9名はすでに故人、5人は連絡先が不明である。そして、担任の先生は、もとより故人である。ところがである! 連絡できた42名中、22名、半数以上が出席した。そして、7名は驚いたことに関東からの出席であった。神戸に実家か親戚かがあるのだろうけれど、それでもすごいことだと思った。

「冷たいクラスだった、受験だけが大事な雰囲気だった」みたいな、決して良い思い出を持っていなかったはずなのに、こうして大勢を引き寄せた魅力・原動力は何だろうかと思った。目には見えない並々ならぬ企画者の努力があったのだろうと思った。そしてそれは、至れり尽くせりのいろいろの配慮にもうかがわれた。

開催の時期がよかったことも一つの要因になっているのかも知れない。
1958年に卒業後、58年、そして全員が本年度中に77歳の節目の年齢を迎える。それぞれ、年齢相応に何かしらの病気を抱えていたり、病気をしていなくても、多少とも体のそこここに不調を生じ、体力の衰えを感じている。あるいは、配偶者に先立たれたり、配偶者の世話をしていたり、それぞれ若い時代のようにはいかない。今回、クラス会が企画された。この機会を逃したら、次回は自分はいないかも知れない、あるいはいても出席できる条件がないかも知れない、あるいは自分でなくても出席者の数は減るだろう。そう思い至ったので、参加した人々が大勢いたのかも知れない。
筆者も、実はそうであった。普段の日と異なり、大学は特別な行事を予定していたのだが、それを欠礼してまでこのクラス会に出席することにしたのは・・・・我ながら不思議な思いである。

すでに故人となった先生や級友に思いを馳せて

すでに故人になられた担任の先生や、故人になった旧友たちのために黙祷した。何人かの人によって語られた先生像は、筆者の知らなかった先生であった。貴公子のような雰囲気を漂わせた美男子の先生であり、多かれ少なかれ女生徒の憧れであったのは事実であるが、苦しんでいる生徒や、弱い生徒に心づくしの世話をされたようである。美男子であるだけに、筆者にとっては何か暖かみを感じることがなく近寄りがたい先生、遠い遠い先生であった。同級生の口から語られる暖かい先生の姿を筆者は知らなかったし、そういう先生に接することが出来なかったことを残念に思った。

隣に座っていた人に声をかけると、「心配をする必要の無い優等生はほったらかされたんや。何か問題を持っている生徒には、非常にきめの細かい世話をされた暖かい先生やったんや」とのことらしかった。「私だって、口に出さないだけで色々問題はあったんだよなぁ」と、心の中でつぶやいていた。


女性は全員まだまだ元気だろうと予想していたのだが、故人になっている 9人の中に女性が 3人も入っていたのは驚きであった。級友の中で非常に若くして亡くなったのは秀才のC.K.で、美男子であったためか冷たい感じがしていたが、京大文学部に進学して歴史学を専攻すると聞いていた。

彼については強烈な思い出がある。担任の先生が毎朝のホームルームに英単語5分テストを課せられた。赤表紙の手のひらサイズの英語辞書を1ページから暗記し、覚えたら破り捨てるという方式で、生徒は好むと好まざるとに関わらず従わざるを得なかった。そんな中で、彼は名前だけ書いて白紙で提出し徹底して反抗し続けた。先生は日本史担当なので成績には関係しないが、しかし、彼のこの反抗は、どのような信念で貫き通したのか、ただのつまらない反抗に過ぎなかったのかは分からない。ただ、真似の出来ない彼のこの頑固さには何となく憧れに似た尊敬を抱いていた。美男子の秀才は、花開く前にこの世を去って行った。

英語がよく出来てアメリカに1年留学して帰ってきたM.K.は、明るくてさばさばしていて、筆者とは違った世界にいる人で、筆者は英語に劣等感を持っていたこともあって、ある意味の憧れを抱いていた。彼女は16年半前、60歳の若さで亡くなっていた。

10回生の中で他に追随を許さなかった超秀才のH.M.は、勉強がよく出来たというだけではなく、何をやっても垢抜けしていて、スマートにこなす人であった。入学以来3年間、定期試験の首席の座を他の生徒に明け渡したのは多分1〜2回に過ぎなかっただろう。あまりにもよく出来たためか、かなり大人びていたようで、子供っぽい同級生を何となく小馬鹿にしていたような感じもあった。1学年600人以上いる大きな高校であったが、彼は当然、全先生によく知られていた。東大に進学し、外交官になるのだとかという噂があったが、卒業後は民間の商社に就職したらしい。学校の成績が良かったということと、社会での貢献度の間に関係があるわけではないが、彼のように有能な人材には、学校で学んだことを社会に還元してほしかったという気がする。だが、13年前に亡くなっていた。

豊かな人生を歩いてきた旧友・仲間たち

58年ぶりの級友たち、お互いに年を重ねて全く誰が誰か分からないかと思ったが、しばらく顔を合わせていると接触の多かった女性陣はすぐに昔の可愛い高校生の面影が重なってきた。だが、男性陣で、特に接触の少なかった人々は、なかなか、そうはいかず、思い出せないで苦労した。

それでも一人ずつ、思い思いに自分の58年を3〜5分間かけて語っている間に、初対面ではあり得ない「旧友」の関係、いわゆる「俺お前」みたいな関係が戻ってきたのは、不思議な気がした。長い人生で、たった1年間だけ同じ学校で学んだというだけの関係なのだが、仲間意識が見事に戻ってきたという感じであった。和やかな雰囲気の中であっという間に時間が過ぎていった。

ただ、よく考えてみると「戻ってきた」というのは必ずしも正しくないかも知れない。高校生の時には話したことのない相手と、むしろ新たに旧友みたいな関係が生み出されたと言った方が正しいような感じなのである。ともあれ、かつての楽しい思い出が還ってきたというよりも、神高の同窓生というある種の親しみと安心感の上に新たな友情が、即刻高く築き上げられたようであった。当時、こんなに和気藹々と和んだ時を共に持ったことはなかったという気がする。言うなら、心の奥底にしっかりと潜んでいた友情が、58年の時を隔てて孵化したということかも知れない。

かつてのクラスメートが授けられていた才能の花が開いて、それぞれの場において豊かな実りを得ていたことを互いに発見したのであった。そして、互いを誇りに思い、3年6組のクラスメートであったことを改めて嬉しく思った瞬間だったかも知れない。12時に食事を始め、それぞれが割り当てられている時間の2倍も3倍も話したい風情で、あっという間に3時間という時間が経過した。

ハーモニカを持参した人がいて、「舟木一夫の高校3年生」の斉唱へと全員を導いてくれて、高校3年生に戻って声高らかに歌った。
大学受験を控えて何となく心が冷えたままの高校3年生だった同級生たちは、58年間にそれぞれの人生を歩み、そしてそれなりの成果を上げて、今や、あくせく心を煩わされることが無くなっているだろう。子供も成長し、それなりに最後の用意も出来ているという豊かさがあるのかも知れない。心ゆったりと、童心に戻ることが出来て、新たに高校3年生に生まれ変わったのかも知れない。

  別れを惜しんで、二次会そして三次会へと

互いに別れがたく、近くの喫茶店に繰り出したが、特別に用がある人を除いてほぼ全員、二次会に参加した。筆者はその日のうちに執筆の仕上げをしなければならなかったので、二次会にまで付き合う積もりで来たわけではなかった。しかし、別れがたい思いが強く、原稿が一日遅れたってどうってことないという気になって、付きあうことにした。

二次会で行った喫茶店は割に空いていたこともあり、遂に校歌を全員で斉唱することになった。すばらしい校歌だと今更ながらにかみしめて歌った。当時も、自分たちの校歌を誇らしく思っていたが、58年を経て改めてすばらしい校歌だと思った。

2.若人は 胸の戸を光に開け
  君見ずや 学問の厳しき目指し
  我がものと 究むる自然人文の
  真理の翼羽ばたけば
  若き瞳の輝くを

そして、小腹が空いてきたとか、何とかで、たこ焼きを食べに出かけた。
こうして長時間一緒に過ごし、あれやこれやとお喋りをして、楽しい時間を共有した。

三宮駅への道を歩き始めて、アイスクリームを食べに行こうという四次会の誘いがかかったくらい、互いにもう暫く一緒にいたいという思いが私たちを覆っていた。しかし、さすがに、もう帰宅の時間であった。

このような楽しい同窓会を企画してくださった世話人に、みんなが感謝の心を抱き、また、素晴らしいクラスメートに恵まれた幸せをかみしめて、再会を約束して、三宮駅で、阪神電車へ阪急電車へJRへと別れを告げたのであった。

今回参加できなかった後の20人の方々が、次のクラス会に参加されたらどんなに嬉しいことかと祈りを込めて、このブログを認めた。




















 
21:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark
Comment








Trackback

講演依頼&お問合せ

公式サイト案内

講演情報_バナー

ご案内


skype_seminar_sidebuner4-e1357803993569.png




christmas_1.jpg
安藤和子 文 / 神谷直子 絵
800円(定価)

カテゴリー

最近の記事

過去の記事

安藤和子の紹介

Comment

  • ノアの洪水の史実について学ぶ:加古川バプテスト教会において
    Yukimichi Okabe (11/06)
  • STAP細胞 (16) 笹井芳樹理研副センター長自殺! 自分自身を赦せなかったのだろうか?
    吉村友喜 (08/07)
  • STAP細胞 (16) 笹井芳樹理研副センター長自殺! 自分自身を赦せなかったのだろうか?
    tera (08/06)
  • 老人には時速5kmで踏切を渡りきれない! / 踏切も交差点も若者対象の設定
    頭の悪いおぢさん (05/11)
  • STAP細胞 (9): 後出しジャンケンで 「グー・チョキ・パー」 全部を出した指導者
    武田照子 (04/19)
  • STAP細胞 (6) 関係する記事を公式ホームページに公開
    田口哲夫 (04/10)
  • STAP細胞 (3) 著者/共同研究者たちの責任・他施設の専門家たち
    やすだ (04/03)
  • STAP細胞 (2) 関係者たちの理解し難い対応・著者たち、他施設の専門家たち
    杉森 経弘 (03/19)
  • 盗んだ人、盗まれた人
    ソープ (07/25)
  • 盗んだ人、盗まれた人
    Yasuhisa Hamada (07/25)

Link

Search

Feed

Mobile

qrcode 無料ブログ作成サービス JUGEM