天才ミケランジェロの足跡を訪ねる旅の番組を興味深く見た。それは天才としての栄光を讃えるのではなく、大芸術家ミケランジェロの心の軌跡を辿っていた。ミケランジェロと言えば誰でもすぐに思い浮かべるのは、ダビデ像や、システィーナ礼拝堂にある彫刻「ピエタ」(十字架から下ろされたイエス・キリストを抱く聖母マリア)など、有名な作品が数多くある
ミケランジェロは「大理石の中に眠っている像を掘り出す」ために、大理石の山に8ヶ月間籠もったという。
中井貴一は表現者としての自分を重ねてこう言う。
「人間を疑っているし、自分を疑っているし、表現するということを疑っている。だから準備をしたいのであり、俳優として提供する前にセリフを覚えて準備をする。まず、セリフを覚えて、それからいったん忘れて、本番で、あたかも初めて声を発するごとく言う。二段階を経る必要があるのであって・・・覚えたという一段階だけだったら時間は要らない。
忘れるという段階を経るので、凄く長い時間がかかる。」
中井貴一は、ミケランジェロが山に籠もった8ヶ月は準備だったのではないかと言う。石の声を聞き続けた8ヶ月だったのではないか、と。彼は俳優「アーティスト」としての職業故に、このような表現をするのだろう。科学者がこのような視点を語ったのを聞いた記憶はないが、実はある意味で同じ過程を、スケールの大きさはそれぞれであるが、それでも大なり小なり体験していると思う。
学んで、それからいったん忘れて、すなわち距離を置いて・離れて、自分のものとして熟成したときに全体像が迫ってくるのである。一流の科学者であろうと、それ以外の小粒の科学者であろうと、それにしがみついて、近視眼的視点で見つめている間は決して何も分からない。
学生が試験のための準備として行ういわゆる「一夜漬け」が、仮にその場の点数稼ぎにつながっても、決して実力は付かないという点において、同じようなことである。ついでのことに、筆者が生物学や化学の領域に於いて学生たちを教育するに当たり、細部の知識に囚われず全体像を見つめる視点を養わせようと、四苦八苦するのも似たようなことである。学生たちは細かい知識にこだわりを見せて、色々暗記しようとするがそのようなことをしても、「生き物」の姿を捉えることが出来ないし、化学を理解することは出来ないのである。
有名なサンピエトロ礼拝堂のピエタ以外に、ミケランジェロは生涯に4つのピエタを造ったという。このことは、これ以上に大きなテーマであるので、別に稿を起こして書きたいと思う。
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