昨年11月頃から、世界のあちこちで流行の兆しが見え始めた新型コロナウイルス。当初は恐ろしそうには伝えられてこなかった。様々な変遷を辿って、現在、2020年6月、ある地域では多少下火になり、別の地域ではいつまでも収まらず、別の地域では新たに荒れ始めて、ニュースと言えばこの新型コロナウイルスのことである。
様々なウソとほんとの混じり合ったニュースと、さらにウソの方が多いコメンテーターと称する人々の大声の発言が、日本中をかき回している。その中で、本当のことをかぎ分けるのは並大抵ではない。特にご大層な肩書きを持った方々が、テレビで大声で情報を流すので、ますます混乱する。
筆者は、このパンデミックに多少とも興味を持ったので、各種情報を多少は掻き集めた。とは言っても、この世に舞っている数多くの情報量からすると、ほんの一部でしかないが。そして、それをまとめて、この新型コロナウイルスは現状分かっているところで、どんなものか、どのようにして避けて通るか、仮に知らぬ間に感染していて、すなわち無症状感染者になってしまっていた場合に、どのようにして他の人に感染させずに済むか、などなど、興味のある方々には情報提供している。
大学では、「生命科学」の講義の一端として、特別に挿入して2回に亘って話したが、講義であるからもちろん科学の話が中心である。ただ、4月中旬であったので、2ヶ月後の現在担って、このウイルス相当異なった姿を見せ始めている。
前の日曜日には、枚方市のグレイスチャペルで、そして次の日曜日はインマヌエル枚方キリスト教会でその話をする。そのチラシを紹介する。
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京都インターナショナルユニバーシティ・アカデミーの教諭である山本晴代さんの優しい声で朗読されていて、目で読むのとは異なった穏やかな雰囲気が滲み出たナレーションを楽しむことが出来ます。
パソコン、スマートフォンで、またポッドキャストでもお聴きになれます。(全タイトル無料)
是非、音声版でもお楽しみください。月2回のペースで配信されます。
公式サイト:http://andowako.holy.jp/podcast/dm/
ポッドキャストリンク先:https://podcasts.apple.com/jp/podcast/id1472323845
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上記チラシ案内のように、
「命の自然発生の否定」
〜 聖書的・科学的検証 〜
生命の自然発生はなぜ、否定されなければならないか?
という内容で話します。
興味を持たれる方は、自由にお越し下さい。
場所:インマヌエル枚方キリスト教会(戸谷芳朗、富士子牧師)
日時 6月9日(日)午後1時半〜
〒573-1185 大阪府枚方市天之川町2-122
TEL & FAX 072(840)2213
京阪枚方市駅から徒歩8分
「私たちは健康に生きるように創られた」という標題の下に、創造主が創って下さった私たちの体の素晴らしさを話します。上記のパンフレットのように、免疫力の素晴らしさと、町に溢れている無数の薬がしばしば私たちの健康を損ねている現実を話します、
日時 11月17日(土)10時〜12時半
会場は、兵庫県加古川市大野823 加古川バプテスト教会 079-423-2729
興味を持たれる方は、自由にお越し下さい。
11月11日(日)10:45
南花台キリスト教会
河内長野市南花台4丁目15−1
日本は世界一の長寿国であるが、ただ死ななかったというのではなく「健康寿命」が話題になって久しい。それは、人々が健康に自信を失ってしまっていることの裏返しになっている。健康に自信がない、自分の体に信頼がおけない人々は、企業の金儲け主義に踊らされて、様々なサプリメント漬けになっている。
私たちは本来、健康に生きるように創られたのである。そのことに焦点を当てて、特別聖書講義が開催される。興味のある方は、ご参加下さい。
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若い時には教育者になることにとことん抵抗して、背を向けていた。大学院生の時には、アルバイトとして非常勤講師を数年間務めたが、どこまでもアルバイトでありライフワークであるなどとは夢にも考えていなかった。
ところが、研究の場にいたら、いつの間にか必然的に他の人の面倒を見ていた。自然に指導していたり、その任務に就いたり、結果的に教育者としての人生を送ってきた。
イエス・キリストを救い主として信じる恵みを頂いてからは、積極的に教育を考え、行動してきた。こうして、子供たち、若者の教育と同時に、キリスト者としての人間教育を考え続けて30年になる。
教育は、人間にとって永遠の大切なテーマである。後に続く人々の様々な側面からの教育、自分自身の教育、共に考える教育、様々な教育者たちが考え続けてきている。
キリスト者として確かな世界観を持って教育に携わる人々は、大きな役割を果たしてきている。だが、一方で、意識的に色々な間違った思想を社会に振りまく人々もいる。そして、一番、影響が大きくて恐ろしい「教育」は、教育という顔をしない大きな教育効果である。テレビ、新聞、スマホなどマスコミは、人々の生活に、心に絶えず入り込み、語りかけて大きな影響を及ぼしている。
そして、今や、進化論を教えるのは学校ではない。テレビでありスマホである。どんなことでもちょっと良くなると「進化した」と言うことに抵抗を感じる人々は本当に少ない。そして、それが、人々の脳に大きな作用を及ぼして、人間もサルのような動物が進化して存在するようになったと大きな暗闇に突入している。自分の命の尊さが分からなくなってしまう。今の世の荒れ方を見ると明らかである。
ということで、クリエーション・リサーチ・ジャパンでは二〜三年に亘って教育問題を考えるセミナーを秋に催してきた。今年の秋は筆者が担当した。セミナーは東京で開催されたので、大阪からは参加しにくい。それで、大阪の鳳キリスト恵み教会から、同じ話題で教会で話して欲しいという要請があり、明日10月28日(日)にセミナーの奉仕をさせていただくことになった。案内が遅れてしまって申し訳ないと思いつつ、フェースブックでもご案内した。今回は、一地方教会でのセミナーであるので、先のセミナーとは趣を変えて、一般信徒を対象にしてお話をすることになる。鳳キリスト恵み教会は非常に開放的で、フレンドリーな教会であるので、近くの方は気軽に参加してほしいと思う。
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久しぶりに「地上の星」シリーズをこのブログでご紹介する。
この「地上の星」と題する講演会は、長野キリスト集会の尾崎富雄氏により長年開催されているもので、地上できらっと輝く働きをしたクリスチャンの生涯を紹介している。中には非常に有名な人も取り上げておられるが、ほとんどは余り知られていない人々である。(長野キリスト集会のサイトを開いて下さい。講演が聴けます)
今回ここでご紹介する河井道も、タイトルにあるようにこの人がいなかったら戦後の歴史は大きく変わっていただろうという働きをした女性である。にもかかわらず、日本の歴史は彼女の働きを埋もれさせてしまった。何かの意図があったのか、なかったのかは、歴史の底の底を探らなければ分からない。恐らくは人間の歴史では永遠に埋もれたままになってしまうかも知れない。しかし、神の国の歴史では、しっかりと書きとどめられているに違いない。それくらい彼女の働きは大きな影響を与えたのである。
河井道は恵泉女学園の創立者としてのほうがよく知られているようである。恵泉女学園という学校も、尾崎富雄先生の話を聞くまでは筆者は知らなかったが、学園のサイトで知る限りにおいては、非常に素晴らしい理念を掲げておられる。
「広く世界に向かって心の開かれた女性を育てなければ戦争はなくならない」と考えて、1929年、河井道が創立した学校が恵泉女学園である。そして、「この学校の真の校長はキリストです」と言い、信仰に基づく謙虚な心を持って学園を運営し、今も恵泉教育の中で一貫して伝えられているという。
創立89年を迎える現在、学園長中山洋司氏は「教育の目的は、自立(律)」であると断言する。学園の使命は「キリスト教信仰に基づき、・・・神と人とに仕え、自然を慈しみ、世界に心を開き、平和の実現のために貢献できる女性を育てる」ことであると発表している。「人が人間として自立(律)するには、学力と人間力を兼ね備えることが必須である」と言う。
言葉として書かれていることには異論はない。非常に素晴らしいと思う。
さて、具体的には、(1)人間性の滋養(心)を育むために、「聖書」「国際」「園芸」を正課に取り入れているという。(2)学力を育てるとは、単に与えられた事柄を覚えるだけではなく、じっくりと学習者自身が自分の内で知を醸成し、理を獲得していくことを意味する。中学高校では、思考力と発進力に力を注ぎながら知を醸成する。大学は、思考力・判断力・表現力を高める。(3)自立した学びへの支援。などを掲げている。
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河井道は、余りにも優れた才能を頂いた類い希な人であると思われる。良家の生まれであって庶民ではない、後で、経済的な苦難が時代の流れの中で一家を襲ったが、しかし多くの恵みの中で彼女の才能は非常な努力の結果、見事に花開いた。
多方面に亘る能力を駆使して、また恵まれた機会もあって、日本の戦後の一つの危機を救う一助をしたのだろうと思われる。また、その才能を新渡戸稲造にこの上なく珍重されて、遂に、世界恐慌のまっただ中で恵泉女学園を創立した。
「女性が少し学問が出来るからと言って、炊事・洗濯・掃除等々の家事が出来なくては駄目です」というのが、彼女の「自立・自律した女性を育てる」方針の真の中身であったようである。明治の時代に生まれ育った女性として、このような思想は致し方なかったとは思う。今の時代にこんなことを、心の中で秘かに思っていても、公言したら、多分袋だたきに遭うだろう。だが、恵泉女学園を創立したのは、昭和4年、このような発言が当然であると考えられた時代であったし、どうやら平成がもう終わろうとしている現在、2018年でも、一般的には心に引っかからないで聞き流す人がほとんどだろう。だが、筆者は、とことん「引っかかった」。こんなにも優秀で先進的で、時代を牽引してきた女性が、しかも女性の自立・自律を旗印にして学校を創立した彼女が、何ということ!と思った。
この話は、上に紹介した「地上の星」の講演で、尾崎富雄先生がサラッと紹介しておられる。それに対するコメントはないが、全体的な話の流れや調子としては肯定的かな、という印象を受けた。当たり前かも知れない。普通の男性の感覚としては、女性の自立や社会進出を支援する男性のほとんどは、家事を手抜きしないという前提が入っていることが多い。即ち、家事、家を整え守るのは女性の仕事であるというのが社会一般の「常識」だと決めているのである。
即ち、女性は社会で活躍したいのであれば、働きづめに働いて、心身共にすり減らして生きていきなさいということか?実際、一日の仕事を終えて帰宅すると、男はのんびりとくつろいで腰掛けて新聞を読んだり、テレビを見たりしている。一方で、女性は夕食の支度をしながら洗濯機を回し、洗濯物を取り入れて畳み、ただ働きづめの一日を終える。朝は朝で、女性が先に起きて朝食の準備、子供たちのお弁当を作り、そして子供たちを起こして、大変な思いをして朝を過ごす。・・・もっとも、これは日本の場合である。アメリカの家庭は違う。家庭は夫婦で作り上げるものだという思想が人生観の根底にあるようである。
さて、ともあれ、女性の自立のために大きな働きをし、恵泉女学園という実を遺した河井道がこのように豪語した背景は、彼女の生きた時代、彼女の家系、そして何よりも彼女の類い希な才能によるのだろう。そういう意味で、彼女は余りにも有能すぎた。二人前、三人前の働きをやり通すことが出来たのである。だが、並の人間には出来ない。家事万端をするのは、今の時代にやっと認められ始めているが、一人前の仕事である。社会で何かの仕事をするのも同等に一人前の仕事である。従って、特に優れた仕事をしていなくても、家事を行い、同時に外で働くのは二人前の仕事である。
河井道は社会的にも二人分の仕事を高いレベルでやり遂げた。その上で、家事も立派にやったのだろう?? ともあれ、それほどに優れた才能を誰に頂いたのだろう? 彼女を特に選んでこのような才能を与えられた神を彼女が忘れていたはずはない。よもや自分がエライと思っていたとは思いたくない。だが、ではなぜ、このような傲慢な発言をしたのだろう?このように豪語したのはどうも赦しがたい思いがする。学問をし、同時に家事も満足に果たすことが出来る女性、いや男性も含めて人間は、1000人いたら、多分一人くらいいるだろうか? 残り999人は、どちらか、あるいは両方ともに欠けが生じる。そして、女性の場合、社会での仕事を充分に果たせない状況が起こる。かくて、日本における女性の社会進出が著しく遅れている一因となっているのである。
****日本は民主主義後進国であると評価される所以である。****
河井道のこの発言にこだわるのは、筆者自身が若い時代にこのような言葉を浴びせられながら自立・自律を追い求めて人生を歩んできたからである。筆者は河井道のびっくりするような才能には及びもつかない凡人であった。一人前のことしか出来ない一人の平凡な女性として生を受けた。ただ、「女性はこのように生きなさい」と、社会から女性に押しつけられることとは異なった生き方をしたいと思い、異なったことに関心があり、異なったことに情熱を燃やしたために、ある意味で厳しい人生を強いられることになったのである。筆者が関心を持つことは「女らしくない」と非難の対象になり、多くのことは道を閉ざされてしまった。男であったなら良いのだけれどとだめ押しをされた。女は自分の意見を持ってはいけないし、ましてそれを発表するなどとんでもないと否定された。日本では男も「出る杭は打たれる」傾向は結構あるが、女性には何倍も手厳しかった。アメリカに行って、女が自分の意見を持っても、それを発表しても構わないと知った時の驚きと喜びが分かるだろうか? 自分の独自の見解を持つことが、女らしい定義の中に収まっているのである。男らしいこと、女らしいことの定義は、日本とアメリカでは全く異なっていたのである。
日本では押しつけられることを撥ね付ける以外に、筆者のような人間には生きる道はなかった。もっと有能であれば、少しぐらいは楽であったかも知れないと、この世の人生の終焉が何十年も先ではなくなった今になって思う。だが、神様はそのように豊かな才能を筆者には与えられなかった。もしかしたら、能力以上のことをしたいと思ったのかも知れないと、今になって思う。だが、そのような厳しい道を歩いてきたから、世の理不尽に気が付いた。世の不当な差別に気が付いた。そして、そのような世の理不尽に対しては、理知的に戦う必要があると気が付いた。ただ単に、腹が立つという感情的な戦いではなく、理性的に世の理不尽を、差別を多少でも解決するための努力をしなければならないと気が付いた。様々な理不尽な差別と戦ったいる多くの人々のために、本当に小さなことではあるが、筆者の出来ることで手を差し伸べなければならないと思った。
昭和に生まれ育ち、平成まで無事に生きてきた、そういう時代背景の中で育まれた一人の平凡な女性にも、主である神が小さな使命を与えられた。「あなたはこれこれのことをしなさい」という神の声を聴いたと信じている。その与えられた使命を全うして神の国に凱旋したいものだと切に願って、日々の生活を大切に生きている。
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東京医大では、医学部医学科の一般入試で、女子の得点に一定割合の係数をかけて一律に減点し、女子の合格者数を抑えていたことが判明した。点数操作は2010年頃から続いていたと見られるという。募集要項には記されていなかった。記されていなかったことが問題だと考えている人々が大勢いるようであるが、それが問題なのではない。差別が問題なのである。
文科省見解:点数操作を明記すれば認める
入試の募集要項に男女比の調整を明記していれば、大学の責任で特定の受験者を優先して合格させることはできるという。
問題は、説明しないで調整をしていたことが問題だという。
本当の問題点は、このように差別することであって、募集要項に差別を明記するかしないかの問題ではない。
女性医師は、妊娠、出産などで稼働率が低くなることが問題だと、訳の分からない理由付けをしている。子どもを生み、育てる責任は男女で、社会で担っていくのだという認識すらない遅れた日本の社会である。
日本の社会に渦巻く様々な差別
女性に対する差別でも、このように本質がずれたところで論じられる。そして、差別されている本人たちがそれを認識しないという問題もある。社会の様々な差別をまず認識し、一つ一つの差別を、差別の芽を潰していかなければならない。
日本の民主主義のレベルが非常に低いと世界で批判されていることを受けとめる必要がある。
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著名なキリスト者である植村正久氏が美しい翻訳をする前は、原作もほとんど知られていなかったらしい。それがこのように見事に翻訳されて、日本のみならず世界に知られることになったという。
筆者がこの詩を知ったのは、長野キリスト集会の尾崎富雄先生の「地上の星」シリーズの講演の第54回「植村環」の話の中で紹介されて大きな感激を覚えたことによる。
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「聖書を読む会」特別企画
「地上の星--名もなきクリスチャンの生涯」
ゴスペルホール代表、尾崎富雄氏
第1回 2011年10月7日(金)
第48回 2016年2月19日
各回、平均CD2枚に納められている
問い合わせ先 長野キリスト集会
〒381-0082 長野県長野市上駒沢918-8
TEL・FAX026-295-6705
「地 上の星」リスト・2016年3月
長野キリスト集会の「名も無きクリスチャンの生涯」シリーズはタイトルの如く、取り上げられる人物は、ほとんどが名のないクリスチャンたちの生涯である。講師は尾崎富雄先生で、詳細に調べキリスト者としての視点からまとめて話されるので、含蓄のある話になっている。
興味のある人は、上に上げたサイトに講演がアップされているので聴いて見て下さい。伝道に心を用いている人は、このCDは役に立つだろうと思います。
「天に一人を増しぬ」
セラ・ゲラルデナ・ストック作 植村正久訳
家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり
愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき
さはれ 天に一人を増しぬ 清められ 救はれ
全うせられしもの一人を
家には一人を減じたり 帰るを迎ふる声一つ見えずなりぬ
行くを送る言葉 一つ消え失せぬ
別るることの絶えてなき浜辺に
一つの霊魂は上陸せり 天に一人を増しぬ
家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れにたえず
内に入れば空きし席を見るも涙なり
さはれ はるか彼方に 我らの行くを待ちつつ
天に一人を増しぬ
家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽いて
歩みもしどろに 目も暗し
さはれ みくらよりの日の輝き出でぬ
天に一人を増しぬ
げに天に一人を増しぬ 土の型にねじこまれて
キリストを見るの目暗く 愛の冷ややかなること
いかで我らの家なるべき 顔を合はせて吾が君を見まつらん
かしここそ家なれ また天なれ
地には一人を減じたり その苦痛 悲哀 労働を分つべき一人を減じたり
旅人の日ごとの十字架をになふべき一人を減じたり
さはれ あがなわれし霊の冠をいただくべきもの一人を
天の家に増しぬ
天に一人を増しぬ 曇りし日もこの一念に輝かん
感謝 讃美の題目 更に加はり
吾らの霊魂を天の故郷にひきかかぐるくさりの環
さらに一つの環を加へられしなり
家に一人を増しぬ 分るることのたえてなき家に
一人も失はるることなかるべき家に
主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を
我らすべてにも与えたまえ
]]>日本にはサッカーしか、他には何も無いかの如き様相である。確かに、サッカーしか何も目に入らない人々もいるのは確かだろう。しかし、日本人の何パーセントの人々がこのようにサッカーに夢中なのだろう?
このように日本中が、まるで一つであるかの如き狂乱状態を呈すると、映像でしか知らないヒットラーを取り巻いた当時のドイツの姿を思い起こす。その頃、日本も軍国主義一色であった。アメリカも参戦した後は、「パールハーバーを忘れるな!」のその一点で、一致団結させられた。そして、その後にはソ連のスターリンの独裁、そして何回も様々な局面での中国の「一致団結」。そして北朝鮮の独裁制の狂乱はいつまで続くのだろう。一体何がどうなっているのか外部の人間には一切分からない。
このように国全体が、あるいは地方全体が、あるいは何かのグループ、それが例え数人のグループであっても、全体が一致団結すると人は理性を失って、「何でも出来てしまう」みたいな状況を醸し出す。グループが小さくて、別の逃げ道があればそこから抜け出すことは可能であるが、抜け出すことの出来ないグループにはまってしまうと狂乱の生活の中でどんどん人間であることを忘れてしまう。もう、昔のことになってしまった感のある「オウム事件」は、そのような「一致団結」の恐ろしさを日本人に改めて思い出させたのである。ただ、このような全体主義思想は自分とは無縁だと思い込んでいることこそ、全体主義思想を助長する温床なのであり、実は、多くの人がその中で生きている。そして、日本中はしばらく、「オウム事件」一色で塗りつぶされた。
全体主義的思想は、人から理性を奪い、全体の中に巻き込まれていると、とにかくも安全である。「個」を主張すること、他の人とは異なる「独自の考え」を述べること、他の人とは「異なった行動をする」ことは、恐ろしい危険に曝される。実態は色々であるが、「みんな」という訳の分からない言葉で、人は簡単に踊らされる生き物である。
スポーツは、しばしば人間の理性を奪い、狂乱の踊りを踊らせる。このような大騒ぎが起こると、筆者が体験した昔々の小さな事件を思い出す。筆者が高校生の時のことであるが、国民体育大会(国体)が県で開催されることになり、当然のことながら学校は上げて参加し、応援した。どの競技に学校が参画したか覚えていないが、当時、その高校はサッカーが強かったからサッカーは多分参加したのであろう。それ以外に、どの競技に出たのかは全く覚えていない。ただ、学校は応援に行くようにと生徒たちを鼓舞し、奨励した。
それは自然なことであり、それ自体は悪くない。その高校は、当時の他の高校に比較すると、非常に自由を大切にし、生徒一人一人の個性を育てることに心を用いた高校であったと思う。そろそろ受験戦争の嵐が荒れ始めた時代であったが、その高校は「全人教育」を目指していた学校で、大学受験のためだけの「机にしがみついた勉強」を評価しない教育が行われていた。従って、生徒たちもいわゆる「ガリ勉」を軽蔑し、勉強もクラブ活動もきちんとこなす生徒が尊敬されていた。
その高校の生徒の大多数は、当時としては珍しくそのようなバランスの取れた高校生活を、何とか曲がりなりにも楽しんでいたように思う。「ところが」である。勉強だけではなく、クラブ活動も運動も大切であるという考えを歪んで解釈した教師がいた。勉強も、クラブ活動も、運動もというこの「も」を曲がって考えたのである。国体があったら、「運動が」唯一大切であると決めつけ、教職員も生徒たちも一人残らず、国体に夢中になり、応援に全力投球すべきであるという全体思想を生徒たちに押しつけたのである。
国体終了後、その教師の授業の第一時間目、「国体の応援に行かなかった者は手を上げなさい」と、手を上げさせたのである。この教師の国体に対するこれまでの考えを生徒たちは知っていたので、手を上げたらクラス全体の中で叱責されることは分かっていた。それで、知らん顔をして無視した生徒がかなりいた。しかし、数名は手を上げた。予想通り、彼は「大学受験だけが大切ではない。このようなスポーツ大会に応援にも行かないで、机にしがみついて勉強ばかりしているようでは、ろくな大人にならない、云々・・・」の叱責を加えた。
国体の応援に行かないということが、すなわちガリ勉であると決めつけた教師に、筆者は猛然たる反感を覚えた。小さい頃から運動に関しては人並みのことが出来ないために、教師に痛めつけられ続けていた筆者は、当然のこととして運動嫌いで、激しい劣等感を持っていた。ガリ勉だから国体の応援に行かなかったのではない。勉強は一生懸命したが、さりとて、大学受験につながることばかりしていた訳ではない。ただ、単純に運動が嫌いだったのである。ただ、問われて手を上げないという振る舞いは筆者には出来なかった。何を言われるかが分かっていても手を上げた。彼の非難を黙って聞いていた。それに反論するすべはなかった。心の中に彼への反発心が沸き上がっていた。
運動が好きな人は、自分が一番出来る種目だけではなく、どの運動をしてもある程度はスマートにこなす。いわゆる運動神経が発達しているのだろう。逆も真である。運動が出来ない人は、何をやっても人並みに出来ない。
人の好みも様々である。運動の好きな人、嫌いな人、勉強が好きな人でも、数学が好きな人、物理が好きな人、生物に関心を持つ人、音楽が好きな人、絵画が好きな人、文学が好きな人・・・・・実に、人様々である。この多様性を認めない、全体主義思想は人間をダメにする。空恐ろしい思想である。
日本は、あるいは世界中、このような全体主義思想でうごめいているのかも知れない。
まだ、決着を見ていないレスリング界の騒動も、その一つである。あのようなとんでもない監督がパワハラをし続けて、・・・通用したような群れは恐ろしい。そして、その彼を支持して、まるでドラマの悪役がほざくような台詞を平気でマスコミの前で、パワハラの被害者である選手に更に追い打ちを掛けて非難の暴言を「吠えた」〜大学の「学長」。どのように贔屓めに見ても、彼女はまともな人間とは思えない。
そうかと思えば、アメフト騒動・・・・巨大な大学という閉鎖社会。この中で生き残るためには、口をつぐむしかないという恐ろしい群れが、大小様々、日本にどれ位あるのだろう?
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サイトを訪れて本文を読んでいただきたいと願うので、その「序文」をここで紹介する。
神のみ姿を映された尊い存在として人はこの世に命を頂いた。そして、地を治め、動物たちを治める任務を与えられた。しかし、神よりも自分の方が正しいと主張して、神に反逆し続けたなれの果ての人類の姿、世界中が憎しみと戦争で荒れ狂っている姿、ボロボロになった地球の姿を、人類は今、なすすべもなく呆然と見つめている。神のお姿がすっかり見えなくなり、頂いた美しい姿も分からなくなっている。
しかしながら、私たちが創られた見事に完全な、最初の姿がどのようなものであったかを再確認し、イエス・キリストを信じる信仰によって新天新地に新しい体を頂く約束に胸膨らませて、この「創造と福音」の連載を締めくくりたいと思う。
なお、2017年1月号から12月号までは、「キリスト信仰&聖書」対「学問&自然科学」との関係について、様々な角度から考えて書かせていただいた。そして、2018年1月号からは、「神の創造、そして慈愛と正義」という全体的な主題の元に、(中)高校生及び大学生を読者の中心において、読みやすいよう、親しみを持てるように工夫して創造の過程を描いている。興味のある方は、ハーザー誌を購読して下さい。ハーザー誌は多少堅いかも知れないが、内容の濃い、記事が山積みである。霊魂体の大きな養いになる月刊誌であるのでお薦めしたい。
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聖書と科学との関係については、様々な誤解が日本のみならず、多くの国で拡がってきたように思います。それは、聖書への誤解、そして科学への誤解と科学に対して、殆ど信仰になっているほどの過剰な期待や誤解が相俟って、聖書及びキリスト信仰の真の姿が伝わらず、様々な曲解の中で信仰者も、そうでない人々をも苦しめてきたように思います。
聖書を正しく読み、理解することと同時に、科学をも正しく理解する必要があると、両者の関係を機会があるごとに語らせていただいています。今回、鳳キリスト恵み教会で行ったセミナーをDVDにまとめたのでご紹介します。セミナーでは、いつもと同じく、内容を分かりやすく理解出来るための一助として様々なイラストを使用しており、楽しんでいただけると期待しています。
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DVDの内容(要約)
【DVD 1】 「聖書と科学との正しい関係」
恵みと愛と祝福に包まれて人類史は始まったが、神のようになりたいという誘惑の迷路に人類は突入した。人間の科学が絶対であり、聖書を科学で証明する必要があると思う科学信仰の闇が拡がってきた。
【DVD 2】 「科学は主に導かれて」
創造主は叛逆した人類が学ぶべきものとして、ご自身が定められた自然法則を学ぶ道を示された。優秀な科学者たちは、汲めども尽きない知識の泉に胸を躍らせ、自然の真の本質を人が知ることは永遠にないだろうという英知を授かったのである。
現在、オンラインストアでご購入いただけます。詳細・ご購入はこちらまで。
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一面のトップ記事は、横綱のしでかした暴力事件の相撲協会としての後始末の最後として、被害者側の親方、「貴乃花理事の解任」である。一時期、毎日、スポーツ紙でも何でもない、日本の良識みたいな表向きの顔をしている新聞の朝刊の一面にこの暴力事件が取り上げられ、あきれ果てていたら、遂に一面のトップ記事である!
相当な理由があっても、手で殴る暴力さえ許されることではない。まして、この加害者は手でかなり激しく殴った後、何かのリモコンか何かで殴り、被害者の頭を10針縫うほどの大けがを負わしているのである。
それは、まさしく刑事事件として取り扱われる事件であり、警察に届けたことを云々する事例ではない。
にもかかわらず、相撲協会はこのことを問題としたことを大きく取り上げたようである。
日本の社会は、悪事をなしても権力者は隠蔽する悪習がある。うやむやになりそうな安倍首相夫妻を取り巻く「もり・かけ問題」に代表されるような、日本の指導者が権力・人脈を思う存分に操って隠蔽してしまいそうな勢いである。
相撲協会はさらに古めかしい閉鎖社会であるから、これまでも横綱が暴力をふるってけがをさせても、弟子を殺しても、まともに刑事罰を受けないで覆い尽くしてしまった。今回も、警察などに報告しないで完全に覆い隠してしまおうとした。それに抵抗した「正しい判断」をした貴乃花親方に腹を立てた理事長一派は、集団でいじめを行なって理事解任を決議した。提案ということのようだが、評議員会はさらに強硬姿勢で、どの社会でもいつの時代でも、抵抗する勢力は排除される。
暴力事件はそっちのけである。本末転倒もはなはだしい。
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ユニセフの広告の台詞に驚いた!
そして、この父親の台詞を子供が非常に肯定的に、感激したかの如き感想がその後に続いて語られている。
食べ物がなかった時代、不味い脱脂粉乳でも食べるものがあるだけでも幸せだったという父親の思い出が語られていて、食べ物のない世界の子供に遺産を贈りたいということである。
遺産を誰に、どのように分けるかは、法律の許す範囲内に於いて、死ぬ者の自由であるだろう。だから、自分がこの世にいなくなる時点で、「善行」をして好い気分になろうというのは自己中心で、高く評価される筋合いのものではないと思うのだが、不思議に世の中はこういう行為を歓迎する。
社会の弱者、政治紛争の犠牲になっている子供たちへの思いやりが本当にあるのなら、遺産ではなく現在の自分が享受している様々な恩恵をこそ分かち与えるべきだろう。自分も大きな犠牲を払ってこそ、意味がある行為である。余ったから与える、自分が死んでいくのでもう要らないから分かち与えるという不遜な態度には、申し訳ないが眉をしかめたくなる。
このような人物たちの「寄付」は、数字の上では経済的潤いをもたらしてユニセフの働きに貢献しているのだろう。でも、それが日本人の思いやりの心であるとは思いたくない。
自分が下車する時、次に座る人を決めようとした人!
ユニセフのこの広告で、列車内で体験した一コマを思い出した。
筆者がもう少しだけ若くて、1時間くらいなら立っていても我慢の範囲であった頃、京都から東京まで出かけた時のことである。新幹線がかなり混んでいて、当然指定席は手に入らず、自由席で筆者は立っていた。大抵は、名古屋で席が空くので一時間我慢すれば良かったのだが、その時の混み具合はそれを期待できるような状態ではなかったので、東京まで仕方がないと諦めていた。
さて、名古屋到着のお知らせ。
降りる準備をする人々がもぞもぞと動き始める見馴れた風景である。そして、予想通り、通路に立っていた人々が席を確保できるほど下車する人はいない気配であった。
と、その時、遠くから筆者の袖を引っ張る人がいた! 振り返ると、「自分は降りるので、どうぞ」と言う。勧められた座席と筆者との間には立っている人が二人ほどいた。その人々を押しのけて「善意に溢れている」という笑顔を作って、「私の席」を譲って上げるというわけである。
もちろん、その席は、もはやその人が坐る権利を持っている「私の席」ではない。強いて言うなら、一番側に立っていた人が次にその席に座る権利を獲得したのである。したがって、自分が権利を持っていない他人のものである席を「盗んで」、他の人に譲り渡そうとする行為である。
筆者は、「そのような行為はいけないことだ」と一言、注意したい思いはあったのだが、それはしなかった。ただ、その座席から遠ざかって拒絶の意思表示をするに留まった。
ちなみに、この広告はいつからしていたのだろう?と、ふっと思った。随分以前からしていたのかも知れないな。日本人の思いやりの心をこのように安っぽい理解しか出来ないユニセフなのか、このような行為が弱者への思いやりだという誤解が日本には実際広がっているのだろうか?
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女性医師の活躍を取材した番組を見た。
優秀な医師たちである。男性の場合には決して起こらない数々のハードル、社会的邪魔だて、妨害、そんなものを一つずつ乗り越えて彼女たちは優秀な外科医として成長し、活躍している。同じ成果を得るためには、男性の何倍もの苦労がある。
「女は外科にいらない」と平気で言えてしまえる社会だったと、現在47歳のこの女性医師は言う。このような攻撃を受けた出来事を過去のこととして語る。確かに、立場も地位も評判も手に入れた彼女に対しては、そのような攻撃は今はないだろう。しかし、今から伸びようとしている若手には、多分、今もそうではあるまいか?
筆者は医者ではなく科学者であるが、長い長い間、迫害に耐えてきた。「女は大学教育など受ける能力はない」「女は家庭で主婦になればいいのだ」「女は教えられて学び、試験で良い点を取ることは出来るが、研究は出来ない」「女は、受け身で教えられた事しか出来ない」「女は考えることは出来ない」「研究に女は要らない」「研究室には女はお断り」・・・こんな恐ろしい言葉を、折に触れては浴びせられて、とんでもない迫害の中を生き延びてきたのである。
社会の女性に対するこのような攻撃は、確かに少しずつ減ってはいるが、筆者が大昔、期待したのとはほど遠い。女性であるが故の迫害に辛い思いをしたときに、2−30年も経てば良くなって、後輩たちはきっとこのような苦労をしないだろうと期待したのであった。すなわち、この女性外科医の世代は、女だからと差別されることはなくなるだろうと思ったのであった。しかし、この女性医師自身は、やはり、女性に対する迫害と闘って、今やっと力一杯働けている。
しかし、この女性は独身であり、今回の番組で出てきた女性医師たちは、独身か、離婚体験者で、家庭生活を楽しむという側面がなく、男性医師とは異なる。家庭生活を楽しみ、子供を持つということを「女の幸せ」という言葉で置き換えるのは間違っているが、家庭を持ち、子供を育て、社会でも働くというすべてが満たされて、人間生活だと言えるのかな?とは思う。
日本人初の女性医師、荻野吟子
日本人女性初の国家資格を持った医師、荻野吟子は、明治18年、1885年に女医第一号になった。
長い長い人類史に於いていつ始まったのか、女性の人権を否定するような社会に転落し、女性自身がそれが正しいことだと思い込まされるところまで人類は堕落した。
そして、そんな長い堕落した社会から抜け出そうとする女性も僅かながら顔をもたげる人々が出てきて、その中で艱難辛苦を耐え忍んで、医者の世界で最初に医師の資格を得た人物として荻野吟子は大々的に報道されたようである。
このクリスチャン女性医師については、長野キリスト集会の「地上の星」シリーズの講演会で、尾崎富雄先生が詳細に講演しておられるので、興味のある人はCDを取り寄せて聴いてみて下さい。
先人たちの努力の結晶として、今の若い女性たちが何とか社会に進出しているが、それにつけてもその歩みの緩慢であることが残念に思われる。
政治の世界でも、このところ有名になりすぎた小池東京都知事、確かに有能な人だと思うが傲慢になりすぎた。所詮それだけの人物だったのだろう。
他にも、国会議員になった途端に不倫騒ぎを起こしたり、まるでやくざのような物言いをして秘書を侮辱するような、まともな人間以下の振る舞いをする「国会議員」というバッジを付けた女性など恥ずかしくてしょうが無い。伸びようとしている真面目な女性の将来に暗雲を立ちこめさせるこれら馬鹿者、女性たちには、がっかりさせられる以上で、唾棄すべき存在に思われる。
荻野吟子のような優れた先輩たちの爪の垢でも煎じて飲めばいい。
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